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あるかどうかわからないけど、あるみたい。ありがとう。

NVC実践者には気をつけろ

はじめに

このメモは、自分の考えを整理するために書いた。ポジティブな方向に向かう問題意識を提示するため、ネガティブな内容を含んでいるので、注意してほしい。

このメモは、私の考えを整理するためであり、NVCが好きな人にも、それ以外の人たちにも、読む必要はない。つまり、誰もこのメモを読む必要はない。

素晴らしい「方法」も使い方を間違えれば、苦しみを生み出すことを知ってほしい、ということだった。その方法がパワフルであればあるほど、注意深く使ってほしい。そんな願いを持っている。

これは、たまたま私の周りに発生した局所的な状況の報告なので、一般的な傾向とはかけ離れている可能性も高い。いったん書いてみたが、しばらくすると考えが変化するだろう。あくまで観察も不十分で、未熟な私自身の意見である。 暖かい目で見守ってほしい。

公開するのは恥ずかしい。けど、 ほんの少しでも世界が色づき、あたたかくなるかもしれない、LOVEを信じて公開してみる。 たまにはいいっしょ。

NVCとは、非暴力コミュニケーション

NVCは、Non Violent Communication (非暴力コミュニケーション)の略である。

家族や友人から、職場、組織、国際関係まであらゆる人間関係を、支配、対立、緊張、依存の関係から、自由で思いやりにあふれた、お互いを豊かにし合う関係へと変えることを可能にする考え方、話し方という「方法」であると同時に、私たちに「なんのために、どう生きるか」を問う、根源的な「意識」でもあります。http://nvc-japan.net/nvc/

aboutnvc_nvcprocess.gif https://www.nonviolentcommunication.com/learn-nonviolent-communication/4-part-nvc/より

NVCは、4つの要素に着目している。1. 観察し、2. 感じて、3. 必要にしていること(ニーズ)を明らかにして 4. それをお願い(リクエスト)する、というプロセスである。共感コミュニケーションとも関係が深いらしい。

私は、NVCの本(日本語訳)を2013年の夏と2020年の夏に読んだ。この本は、夏より、秋が向いている気がするが、なぜか夏だった。

とあるNVC実践者の話

とある人物A氏は、早い時期から NVCに着目していたようである。NVCの素晴らしさについて、いろいろな人に説いているようだ。

そんな人と、連絡を取り合う状況が発生していた。今から10年近く前の話である。

徹底した観察が…

A氏は、私のことを観察しているようだ。

例えば、私がTwitterで何かつぶやくとか何か書くとメッセージがくる。 「それは違うと思う」とか、「僕は同意しない」とか、批判的なコメントを丁寧に送ってくる。 どうやら彼が信じている本の内容と違うという主張のようだ。

確かに、かなり丁寧に観察はしているようだ。

私は、虫かごの中の虫、水槽の中の魚の気分である。ねばーっと粘着され、いわゆるストーカーされているような気分だった。

今から考えれば、NVCを実践しようとしていたのかもしれない。確かに、NVCといえば、観察は大切な要素だ。 でも、気持ち悪かったし、監視されている恐怖を心の奥底から感じた。

A氏に恐怖を感じていることを伝えた。 しかし、伝えても伝えても、届かないようだった。

しばらくして「なんでその時に言わないのか」とも聞かれたが、すでに何度も伝えている。 彼によると、彼の心に届かないのは、どうやら私の伝え方の問題とのことである。 彼によると、恐怖を感じるのも、どうやら私の気持ちの問題とのことである。 公共の場所で、大声で怒鳴られた。

とりあえず、Twitterには、鍵付きのアカウントを作った。

感じたことと、お願い(リクエスト)が…

A氏から「あなたは創造性がない」とか「あなたはコミュニケーション能力が低い」のような指摘が続いていた。 ドラフトを作って見せただけで、半日以上も拘束され、怒鳴り続けられることもあった。

ありがとう、それは、大切な指摘である。 彼は正しく、私の能力が不足している、ってことなんだよね。オッケー。

彼は、「私は〜思う」というIメッセージも使っている。何も間違っていない。

でも、ごめんね、彼以外の方からは、逆の評価をいただくことが多かった。 その時は、小さいコンテストで、創造性が最も高いと評価していただき、MVPとして賞もいただいたんだけどね。

私の欠点の指摘が続くと、気持ちがしんどくなってしまうから、価値あることしようよ〜、楽しく雑談しようよー、とか、朗らかに伝えてみた。

けど、キッパリと強く否定された。 彼によると、楽しいことや価値のあることができないのは、創造性もコミュニケーション能力もない私の問題とのことである。

A氏は、私の存在を無視する発表、見下している発言や、怒鳴る発言が続いた。 私を支配(マウント)を目的にしているようだ。 支配されようとしている側にとって、戦うか、逃げるか、の選択肢しかない。

少なくとも「職場で誰に何を言っても、どのような指摘をしても、拒絶されることがなく、罰せられる心配もない状態である心理的安全性が十分ではない状態であった。 当然の結果として、成果や価値を生み出すことはなく、その状態は数年にわたって続いていた。

ブロックしても、今でも苦しい

A氏は、自身が共感している、よくわかっている、と信じているようだ。

しかし、彼が共感どころか「彼に伝わっている感じ」がまったくない。よく本に書いてあるようなステレオタイプを示して「こうなんでしょ」と話していた。まったくわかっていない。その結果、どんなに言葉を尽くしてもトンチンカンな応答ばかり続いていた。

A氏からのメッセージは攻撃的で支配的で、とても疲れてしまう。自分の健康を守るため、彼とのコミュニケーションのプライオリティをしかたなく下げた。

A氏は、私からの返信が来なくなり、頭に来たのだろう。「友人も辞めることになってもいいのか」という長文のメッセージをいただいた。

いつも通りの捨て台詞とも言える。私は、解放される!、ほっとして、うれしかった。

その後、メッセージはブロックし、メールは Junk として登録した。今でも、FacebookTwitterでも、除外リストに入れている。

それでも、彼は有名人こともあり、他のSNSでは目に入ってくる。最近は、以前より「おかしなこと」は減ってきたように感じるが、それでも、もやもやした気持ちになっている。

その他の事例を見ても…

NVCに関するブログなど、いくつかの記事を読んだ。 「私は共感している」と思い込んで、観察が停止しているように見える記事、自分のニーズが強くて人間関係が崩壊しているに見える記事を読んだ。 本人は「うまくいっている」と思い込んで安心しているだけに、なんとも始末が悪い。

全員ではないとはいえ、ある一定のNVC実践者は、自分自身の認知を認知する「メタ認知」が停止しているように感じる。

NVC実践者が、わかっているな、共感しているな、共感が上手だな、と思った顕著な経験は少ない。 むしろ、彼ら自身の信念や、方法を信じることから観察や共感が停止しているように感じる。

もはやトラウマだった…

それからしばらくして、別の人とやりとりをした。

普通のやりとりが心からうれしかった。 怒鳴られることもない。 欠点ばかり指摘され続けない。 自分の話したことが「伝わった」「わかってくれた」と思った。うれしくて涙が出ていた。

私が感じたことをわかってくれた、受け入れてくれた、共感してくれた、と、私は感じた。それは、心地よくて、一緒に歩もうと思えた。

泣くってことは、深いトラウマになっていることに気づいた。そう、私は強くはなかったのだ。私には根深く傷つき、呪いをかけられた状態であった。

今でも、A氏の発言をみると、怒られるのではないかと身構えてしまう。本記事の公開にも、決断まで時間がかかるようになってしまっている。私自身、10年近く経過した今でも、その苦しみは残っているし、メタ認知や学びも停止しまっているようだ。

NVC実践者には気をつけろ

NVC実践者にも友達になっていただきたい人、継続していただきたい人は、たくさん存在する。 ただ、適切に使っていないように見える事例がある。特に、暴力的な経験は強く印象に残ってしまう。

NVC実践者と、健全な(=非暴力)コミュニケーションを構築することは困難、もしくは、極めて時間と体力が必要とされるように感じる経験があった。 逆に、NVCを実践しない人は、共感でき健全な(非暴力)コミュニケーションが取れることを多く経験した。

しかたなくNVCという言葉を発する人を見たら「気をつけよう」と思うことにした。

家族や友人から、職場、組織、国際関係まであらゆる人間関係を、支配、対立、緊張、依存の関係から、自由で思いやりにあふれた、お互いを豊かにし合う関係へと変えることを可能にする考え方、話し方という「方法」であると同時に、私たちに「なんのために、どう生きるか」を問う、根源的な「意識」でもあります。

私の観測範囲において、一部であれNVC実践者は、いろいろな人間関係が、支配、対立、緊張、依存を引き起こし、相手を束縛し、お互いをけなしあう関係へと変えているように見える。

私自身、長い間にわたり、コミュニケーションに疲れ、おびえ、こじれているように感じる。それは、NVCが原因ではないかもしれないが、分離が困難である。何にせよその経験は強烈だった。

幻想の中で安心しているのだろうか

結局のところ、NVC実践者は、自分自身で「共感しているんだ」「自分は非暴力なんだ」と思い込み安心し、実際は「共感もできず」「暴力的にふるまう」ように見える。

このような矛盾は、ダブルバインドであり、ハラスメントの根源である。

もしかして、NVC実践者は、これはNVCの問題ではなく、実践が難しいというかもしれない。私には難しさを引き起こす仮説はいくつかあるが、議論できるほどわかっていない。ただ、暴力をそれなりに引き起こしているのであれば、それは方法の問題ではないだろうか(少なくとも、代替えの方法はいくらでもある)。

もしかして、NVC実践者は、これはNVCの方法の問題ではなく、私個人の問題である、というだろう。オッケー、どうもありがとう。そのまま、そのセリフをお返しするよ。

もしかして非暴力コミュニケーションの実現には、NVCを捨てることから なのかもしれない。そんな気さえする。

NVC実践者と遭遇したら

主語は、NVC実践者としているが、正確には、NVCを適切に実践できていない状態の人である。ただ、私のような素人が、その見分けが困難である。注意を喚起するために大きめの主語で表現している。

コミュニケーションにおいて相手とのつながりを持ち続けながら、お互いのニーズが満たされるまで話し合いを続けていくという、共感を持って臨むコミュニケーションの方法である。https://ja.wikipedia.org/wiki/非暴力コミュニケーション

NVCの生い立ちから考えると、戦争や闘争状態でも耐えられるほどのパワフルな方法なのである。だからこそ、日常の生活や仕事では、そのパワーを持て余してしまっているのではなかろうか。

(一部の)NVC実践者は、そのコミュニケーション王国における「王様」だと考えると納得できる。

「お互いのニーズが満たされるまで」と書いてあるが、正確には「(一部の)NVC実践者のみのニーズが満足するまで」である。王様だからである。

「共感を持って臨む」と書いてあるが、(一部の)NVC実践者は、異なった価値観を持つ相手のニーズには、基本的に耳を貸さないし、共感もできない。自分は共感できる・共感している、と信じているからタチが悪い。

王様は、自分の信じる道のみを行くのみである。 相手を説得し、相手が折れるまで、自分が支配的な状況になるまで、話し続ける。

王国への戦線布告して戦争してはならない。彼らにとって「おいしい餌」にしかならない。体力と時間が許せば、コメント・ラリーを返し続けることも可能だけど、建設的ではない。王国の国民は、王様への反論できる余地はない。

もっとも良いのは、「(さ)さすがですね」「(し)知らなかった」「(す)すごい」「(せ)センスいいですね」「(そ)そうなんですか!」の「さしすせそ」を応答することだった。王様はご満悦になった。

日常生活においては、ご機嫌をとりながら、その王国から逃げるのが手っ取り早い(そして、自分の王国を建国するのもいいw)。

こんな感じで生きていきたい

「なんのために、どう生きるか」。そんなこんなで世の中はいろいろ大変だけど、落ち着いたら 汁なし坦々麺を食べたいな。きれいな海に行きたいな。みんなで楽しく散歩したいな。

仕事をするときは、いわゆる「心理的安全性」の環境を作り出そうとしつつ、その環境を享受しながら、やっていきたいな。

そんな毎日を守るためには、勇気を持って戦うこともあるかもしれない。中途半端であれ、NVCを使うかもしれない。その時は、強力なツールになるだろう。

建設的なコミュニケーションが取れる、立ち止まって一緒に悩み考える、自分だけでなく他人の風景を味わおうと立ち止まる、そんなコミュニケーションをできる範囲で目指したい。観察し、感じ、要求しながらコミュニケーションしていこう。楽しい毎日を過ごしていこう。

日日是好日。繰り返される日常の中での幸せを見つけながら、今日も良い一日でありますように。

おわりに

読んでくれてありがとう。ネガティブモードからポジティブモードへ、少しずつ進んでいっているつもりである。そのような私に付き合っていただいて、心からありがたい。

このように書いてみると、NVCは、相変わらずパワフルな武器だし、適切に使えば大いなる成果をもたらす。でも、強力な武器を間違えて使ってしまうと、周りだけでなく本人も苦しめてしまう。

中途半端にNVCの本を読んだ人が実践しようとすると、自分は非暴力なんだ、という安心(慢心)を感じ、「なんか怖いな」と思うことが何度かあった。軽く指摘しても、あまり耳を貸してもらえなかった。それは、多様性を持った大人としてのあなた自身の事柄にそこまで価値を置いていないから、同じ大人として距離を置くことを選択せざるを得ない。

また、私は、NVCの使い方についてアドバイスする立場にはない。いくつかの改善する方法やワークについて推測はあるものの厳密に検証していない。ただ、本来の目的を実現するように使ってほしいと願うばかりである。

A氏から、いくつかの方法の問題や、その導入などについての根本的な問題意識を学べた意義が大きい。反面教師として、ずいぶん学ばせていただいた。A氏には、私とは関係ないところで、今後とも活躍してほしい。

私自身は、長い間にわたり、何となくモヤモヤ・イライラして苦しかった。モヤっとしていて、どのように付き合えば良いのか わからなかった。このように文章として書いてみたところ、自分の気持ちが明確になってきた。いまだに「こじれている・苦しんでいる」部分も自覚できてきた。書くことを通じて、おぼろげながら自分のやりたいことも見えてきた。それに向けて歩んでいきたい。

幸せでありますように。 そして、世界が少しでも色づきますように。

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