ことばが通じていく人の判断基準
国語辞典編纂者・飯間浩明さんが語る「ことばが通じない人」の判断基準 - Togetterまとめの内容について,私の考えをまとめてみた.
ことばというものは通じないものです。あなたの頭の中で考えたことを、100%相手に理解してもらうことはそもそも不可能。それでも、何とか伝える方法を考えたい、というのが私の希望です。ただ、社会生活上、「ことばが非常に通じにくい人」を見極めることも必要です。その判断基準を挙げてみます。
「ことばが非常に通じにくい人」の判断基準として三つをあげている.抜粋して引用する:
1. 語句を理解しない:
双方の持つ語彙(の量)が大きく異なる。話し手は、相手に分かる語句を用いるべきですが、語彙の隔たりが大きいと大変です。
例:
A「ボルダリングやってます」
B「何ですかそれは」
2. 語句の意味の理解が不正確:
語句の意味を自己流に解釈する。「言ってないことが言ったことになる」のはこのパターンです。
例:
A「うちの親、たびたび電話してくるのよ」
B「毎日は迷惑だね」
A「毎日じゃないんだけど」
B「『たびたび』って言うから毎日かと思った」
3. 表現意図を理解しない:
相手がどんな意図で言ったかを把握するのは難しい。この種の行き違いが多い相手とは距離を置くのも一方法です。
例:
A「では、そのうち飯でも」
B「来週ですか再来週ですか」
この三点は,ことばが静的もしくは変化が少ないと認識した場合の判断基準としてふさわしい.たとえば,言葉の持つ意味が変化する必要がないため,語彙,意味理解,表現意図などが違いすぎると,ことばが通じない状態になっている.
しかしながら,語彙や意味,意図があいまいで多義性を有し,変化する現実がある.そのような多義性やあいまいさを有している多様で変化するような状況において,ことばを動的,もしくは変化が激しいものとして理解しなくてはならない(ゆる思考の定義における多様性,多義性,あいまいさを示す).このような多様で動的な世界(ゆるい世界)では,いかに情報を共有し学習するかについてが判断基準となる.
いくつかの判断基準があるが,ことばが通じない人の判断基準は「謙虚さの欠如」である.つまり,ことばが通じていく人は謙虚さを有している.一般的に謙虚とは「素直な態度で接するさま」であり,素直な態度によって情報を入力し学習しやすくするからである.ここで,謙虚であることは相手の意見を尊重した上で,自らの意見を素直な態度で伝えることでもあり,相手の意見をそのまま鵜呑みにする,という意味ではない.
- 「語句を理解しない」から「語句を理解していく(謙虚)」へ
- 語彙の量が違い隔たりがあることは前提であり,同じような語彙を持つ人を見つけることの方が困難である.
- 謙虚であれば,定義や意味を確認する行為によって会話が成立すること(ことばの意味)が期待されるからである.「ボルタリング」の意味を確かめることは,相手に興味を示し,情報を入力する態度を持つため謙虚であると判断する.
- 逆に知らない言葉をそのまま用いること,もしくは,あやふやなまま会話を続ける行為は謙虚ではなく,ことばが通じにくいと判断する.
- 「語句の意味の理解が不正確」から「語句の意味を理解していく(謙虚)」へ
- 「表現意図を理解しない」から「表現意図を理解していく」へ
- 相手がどんな意図で言ったかを把握するのは難しいため,すれ違いが大きい場合に距離を置いてしまうと,意図を理解する機会を失う.
- 謙虚であれば,すれ違いが多いときは,その元になる前提や文化を推測した上で,こちらの意図理解を相互に交換して「ことばの意味が通じる」ことが期待できる.たとえば,「飯でも」と言われた時に,文字通りの意味なのか別の意味なのかを確認し,双方にとって納得できるような状態に持っていく.
- 逆に,すれ違いが少なくても,謙虚さが欠如しているのであれば,すれ違いが増えて距離を置くことになる.
このように相互の謙虚さによって学習していく機会を増大することによって,語彙,語句の意味理解,表現意図の理解を得る.その結果,相互に「ことばが通じる」ようになる.逆に,片方でも謙虚さが欠如している場合「ことばが通じない」状況になりがちだ.つまり,あいまいで多義性を有したゆるい世界において,ことばが通じていくかの判断基準のひとつは謙虚さであると言えよう.