ari's world

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「悟り」とその先の世界 - 作った筏(いかだ)が必要なくなる話

Title: 「悟り」とその先の世界
Date: 2019年12月7日 Created, 2020年1月23日 Published

(要約)

この友人たちへの手紙は、何も表現していない。特に新しい主張もない。 何も主張していないからこそ、日々の生活を営める。

(はじめに)

知働化研究会は、次世代のITや「知」について語る研究会である。2019年12月1日の研究会で、このようなやりとりがあった(ような気がしている)。

  1. Aさん:(原稿のリストを作っているので)何を書きますか?
  2. Bさん:書くテーマは決まっていないので、ブランクをカッコで囲ってください。()
  3. Aさん:悟ると書くこと決まるのかな。
  4. 私:いや、Bさんが悟っているから決まらないのです。むしろ筏(いかだ)を手放す必要があるのでは?

このやりとりが面白かったので、この筏(いかだ)について書いておく。

(悟りは苦しみと共に生産を停止する)

; 生きていくことは、大雨と激流の中を歩んでいるようなものだ。その苦しみを克服する筏(いかだ)とは。

悟りとは

釈尊は、四つの真理として四諦を説いた。四諦とは、1) 生きることはすべてが苦しみであり、2) その苦しみは煩悩が生み出し、3) 原因である煩悩を滅すれば苦しみはなくなること、4) その苦しみを滅する方法(八正道)、のことである。

悟りを開くための方法のひとつは、煩悩が生み出される過程を観察し、とらわれなくなる(八正道の正見)。煩悩を滅することによって、苦しみから解放されるのだ。

マインドフルネスやヴィッパサナー瞑想も、これの一部である。

認知と「悟り」

認知(にんち)とは、心理学などで、人間などが外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと(Wikipedia) である。

人によって、見ているものに対する意味付けは違う。たとえば、目の前のリンゴを「見た」とき、赤くて丸い映像を、リンゴだと認知している。しかし、リンゴではないかもしれない1。そこで、コミュニケーションを通じて、それは「リンゴである」と意味付けすると生活を営みやすいから、その認知を共有している(と認知している)のである。

煩悩による苦しみが生まれるのも、判断したり解釈する過程である認知による。この認知を観察することによって、苦しみそのものを滅している。

この苦しみを滅した状態を「悟り(さとり)」と呼ぶ。

「悟り」と「空(くう)」

  • ある瞑想では、物事を見たことなど認知そのものを観察している。
  • 「悟り(さとり・名詞)」とは、瞑想し、すべての表象を捨て去り、苦しみが滅せられた状態を示している。
  • 「悟る(さとる・動詞)」は、「悟り」に至る認知の非連続な変化を示している(参照:連続体仮説)。
  • 「空(くう)」とは、すべての表象を捨て去った自分自身を含めた対象を示している。「空」は、あらゆることが含まれるが故に何も表現していない2

「空(くう)」の表現

抽象化とは、関心のある表象以外を捨てること、捨象(しゃしょう)することである。

つまり、「空(くう)」とは、もっとも抽象化した状態である。ただし、「空(くう)」は、牛小屋の中に牛がいない状態を示していることからである。牛小屋のような器や入れ物は表現される。

よって「空」は、あらゆるすべての知覚された現象を包含している認知の空集合(くうしゅうごう)と表現できるだろう。

なお、コンピュータのプログラミング言語 LISP では、空集合は空のリスト()と表現される(評価した戻り値は、偽 nil を返す)。つまり、Bさんの()は、 「空(くう)」を表そうとしていると理解した。

悟りと生産の停止

悟りに向かうときは、認知や判断を観察し停止させるに伴い、関心や問題意識をも停止してしまう。さらに、言葉や感情は抽象化を含む認知の行為の結果であるため、悟りの状態になっては言葉や感情も消失する。あらゆるものが空(くう)であることを確認するのみである。

つまり、言葉や感情を滅した悟りの状態において、生産や再生産が停止してしまう。いわゆる創造する行為がなくなっている。悟った状態では、原理的に執筆や対話などの創造ができない。

(悟った先の世界)

; 筏(いかだ)で激流を乗り切ったあと、すこやかに過ごし、新しい道を進むために、筏を手放そう。

悟りを手放す

何かを生み出すためには、「悟り」から脱する必要がある。釈尊は、教え、特に悟りを意味する「筏(いかだ)」比喩を用いて説明した。『中村 元(著)ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) 』より

「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

教えや悟りはよくできているが、煩悩の激流を克服しているのであれば、筏(教えや悟り)も不要であると述べている。さらに雨を降らせよ、と、煩悩の激流に対して こわがることなく、立ち向かっていく心構えも表されている。

煩悩を滅し、苦しみを滅し、悟ったあとは、その悟りにも執着せずに手放しなさい、 と説いているのである。

認知を再構築し、物語っていく

悟りや、それに至る瞑想は、自分の内面である認知を観察し、苦しみを生む煩悩を壊す、内面への働きかけとも言えよう。内面にある煩悩を滅した後、外面を作り、どのように過ごすかについても述べられている。

中村 元(著)ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) 』の慈しみより一部を引用する:

究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。

他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。 上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

ここでは、慈しみの心を持ち、一切のいきとし生けるものの幸福を願う形で、認知を再構築し、物語っていくことが説かれている。

(おわりに)

「悟り」を深めつつ、自分の認知を見つめ直し、幸せに物語っていこう。そして、「悟り(=いかだ)」で濁流をのりこえ、その濁流を思い返しながら、自分の物語を語ろう。それは、とても楽しい宴になるだろう。

とりあえず、Bさんに、真の戻り値 t を返した。この世で輪廻 (Read-Eval-Print Loop) を続けましょう。

(おことわり)

この内容は、小学生に説明し、一緒に学習していくことを想定している。正確さより、わかりやすさを尊重し、必要以上に簡潔な表現になっている。ご了承ください。

紹介した内容(仏教、数学、認知科学、ITなど)は、歴史を通して膨大なテキストがあり、綿密に議論されている。正確な内容については、それらのテキストを直接参照してほしい。3


  1. ‪『ヨシタケシンスケ の りんごかもしれない』は、楽しい絵本だよ。

  2. 「空(くう)」については、北伝、特に龍樹によって体系化されている。

  3. 仏教については現代語訳も出ている『スッタニパータ』や『ダンマパダ』や、道元正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』が、明確でわかりやすかった。