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ari's world

あるかどうかわからないけど、あるみたい。ありがとう。

後悔しないための私的なメモ(小さなお子さんがいらっしゃる方へ)

後悔しないための私的なメモ(小さなお子さんがいらっしゃる方へ)

この10年強ほど心がけてきたことを書く。私的なメモであるため、共感いただくことや お役に立てることを期待しないし、ご質問を頂いても答えられないだろう。聞き流してほしい。


人は、いつか必ず死ぬ。 医療や技術の発展により、病気が減り寿命が延びているとはいえ、死ぬことは避けることができない。

人は、人と共に生きる。 特に大切な人と共に生活し、長い間を過ごし、自分と一体となるような状況になる。大切な人がいなくなることは自らを失うことと同義か、もしくはそれ以上である。

人は、いつ亡くなるかわからない。 明日はどうなるかわからない。震災の発生や事故や事件へ巻き込まれるかもしれない。ただ、ある日突然やってくる。

だから今日を生きる。 明日、後悔しないために、今日できることを一生懸命にやる。明日は明日の風が吹く。なるようになる。 そのため、このように心がけてきた:

  • 共にいる:失われた子どもとの時間は取り戻せないため、特に子どもが小さい時は、共に生活する時間を大切にする。私以外にも、たくさんの友達や同僚にもいるが、子どもにとっての親はあなたしかいない。仕事は変われるかもしれないが、子どもとの時間は変われない。
  • リスクを減らす:コントロールできないこともあるけれど、その中でもリスクを減らす。水の事故や交通事故の防止、体を冷やさない/鍛えることなど、できることを実施していく。
  • 近くにいる地震津波、犯罪や火事などが発生した場合、一緒にいたい。それは守ることになるかもしれないし、見守ることになるかもしれない。ただ単に近くにいたい。
  • 思い出を作る:子どもに残すのは思い出だけかもしれない。けど、楽しい時間を一緒に過ごすことは貴重である。
  • 楽しく笑顔で:今日で最後かもしれないと思うなら、小さなことで喧嘩しても仕方ない。笑顔で楽しく過ごす。
  • 感謝する:今を生きられるのはすごいことなのだ。存在が難しいのにもかかわらず存在するのは、ありがたいことである。

逆に私がいなくなっても後悔しないための取り組みもある。たとえば、楽しんで成長する7つの心がけ - ari’s worldを参照してほしい。

あれから11年経つ。これから10年は、子どもたちと、その子どもたちのため、ほんの少しでも手助けがしたい。ほんのほんの少しだけだろうけど、それでも もがくことぐらいはできるだろう。

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2016年12月18日記す

ことばが通じていく人の判断基準

ことばが通じていく人の判断基準

国語辞典編纂者・飯間浩明さんが語る「ことばが通じない人」の判断基準 - Togetterまとめの内容について,私の考えをまとめてみた.

ことばというものは通じないものです。あなたの頭の中で考えたことを、100%相手に理解してもらうことはそもそも不可能。それでも、何とか伝える方法を考えたい、というのが私の希望です。ただ、社会生活上、「ことばが非常に通じにくい人」を見極めることも必要です。その判断基準を挙げてみます。

「ことばが非常に通じにくい人」の判断基準として三つをあげている.抜粋して引用する:

1. 語句を理解しない:
    双方の持つ語彙(の量)が大きく異なる。話し手は、相手に分かる語句を用いるべきですが、語彙の隔たりが大きいと大変です。
    例:
    A「ボルダリングやってます」
    B「何ですかそれは」
2. 語句の意味の理解が不正確:
    語句の意味を自己流に解釈する。「言ってないことが言ったことになる」のはこのパターンです。
    例:
    A「うちの親、たびたび電話してくるのよ」
    B「毎日は迷惑だね」
    A「毎日じゃないんだけど」
    B「『たびたび』って言うから毎日かと思った」
3. 表現意図を理解しない:
    相手がどんな意図で言ったかを把握するのは難しい。この種の行き違いが多い相手とは距離を置くのも一方法です。
    例:
    A「では、そのうち飯でも」
    B「来週ですか再来週ですか」

この三点は,ことばが静的もしくは変化が少ないと認識した場合の判断基準としてふさわしい.たとえば,言葉の持つ意味が変化する必要がないため,語彙,意味理解,表現意図などが違いすぎると,ことばが通じない状態になっている.

しかしながら,語彙や意味,意図があいまいで多義性を有し,変化する現実がある.そのような多義性やあいまいさを有している多様で変化するような状況において,ことばを動的,もしくは変化が激しいものとして理解しなくてはならない(ゆる思考の定義における多様性,多義性,あいまいさを示す).このような多様で動的な世界(ゆるい世界)では,いかに情報を共有し学習するかについてが判断基準となる.

いくつかの判断基準があるが,ことばが通じない人の判断基準は「謙虚さの欠如」である.つまり,ことばが通じていく人は謙虚さを有している.一般的に謙虚とは「素直な態度で接するさま」であり,素直な態度によって情報を入力し学習しやすくするからである.ここで,謙虚であることは相手の意見を尊重した上で,自らの意見を素直な態度で伝えることでもあり,相手の意見をそのまま鵜呑みにする,という意味ではない.

  1. 「語句を理解しない」から「語句を理解していく(謙虚)」へ
    1. 語彙の量が違い隔たりがあることは前提であり,同じような語彙を持つ人を見つけることの方が困難である.
    2. 謙虚であれば,定義や意味を確認する行為によって会話が成立すること(ことばの意味)が期待されるからである.「ボルタリング」の意味を確かめることは,相手に興味を示し,情報を入力する態度を持つため謙虚であると判断する.
    3. 逆に知らない言葉をそのまま用いること,もしくは,あやふやなまま会話を続ける行為は謙虚ではなく,ことばが通じにくいと判断する.
  2. 「語句の意味の理解が不正確」から「語句の意味を理解していく(謙虚)」へ
    1. 語句の意味の理解が不正確であることは前提であり,日常会話における自然言語はその要件を満たしていない.
    2. 謙虚であれば,聞き間違えた/言い間違えた(現実の運用としては判断がつかない)を相互に修正しながら「ことばの意味が通じる」ことが期待できる.
    3. 逆に語句の意味の理解の正確性を自他共に求めると,ことばを通じさせるための心理的コストが高くなる(エネルギーや労力を用いる)ため,ことばが通じにくくなる.
  3. 「表現意図を理解しない」から「表現意図を理解していく」へ
    1. 相手がどんな意図で言ったかを把握するのは難しいため,すれ違いが大きい場合に距離を置いてしまうと,意図を理解する機会を失う.
    2. 謙虚であれば,すれ違いが多いときは,その元になる前提や文化を推測した上で,こちらの意図理解を相互に交換して「ことばの意味が通じる」ことが期待できる.たとえば,「飯でも」と言われた時に,文字通りの意味なのか別の意味なのかを確認し,双方にとって納得できるような状態に持っていく.
    3. 逆に,すれ違いが少なくても,謙虚さが欠如しているのであれば,すれ違いが増えて距離を置くことになる.

このように相互の謙虚さによって学習していく機会を増大することによって,語彙,語句の意味理解,表現意図の理解を得る.その結果,相互に「ことばが通じる」ようになる.逆に,片方でも謙虚さが欠如している場合「ことばが通じない」状況になりがちだ.つまり,あいまいで多義性を有したゆるい世界において,ことばが通じていくかの判断基準のひとつは謙虚さであると言えよう.

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macOS SierraでOS X Lionの日本語類語辞典を使う

macOS SierraでOS X Lionの日本語類語辞典を使う

類語辞典は、私の乏しい語彙を補ってくれ、言葉の関係を知るため気に入っている(英英でも類語辞典を愛用している)。macOSは標準で、知りたい言葉を強くクリック(もしくは三本指クリック)で、辞書を引けるので便利だ。しかし、OS X Mountain Lionから標準で、日本語の類語辞典がなく不便であった。そこで、OS X LionのインストールディスクからmacOS Sierraで類語辞典を使えるようにした。

  1. Lion をダウンロードし、類語辞典をサルベージした。 Mac OS X 10.8 Mountain Lionで失われた類語辞典を求めて | 配電盤を参照し、行った作業である。

    1. App Store からOS X Lion をダウンロードする(ダウンロードできない場合は、次からの作業に進めない)。
    2. Applicationsフォルダにある「Mac OS X Lion install」をCtrl+クリックし「Show Package Contents」を選択する。
    3. Contents/SharedSupport/InstallESD.dmgをダブルクリックする。
    4. Terminal.app で以下の操作行った。

      cd ~/Desktop #参照記事と同じ

      pkgutil --expand "/Volumes/Mac OS X Install ESD/Packages/Essentials.pkg" ./tmp

      ditto -x --bom ./tmp/Bom ./tmp/Payload ./

    5. Library/Dictionariesに類語辞典があるので、必要なフォルダにコピーする。

    6. Desktop にたくさんのフォルダができるので、全作業完了後削除する。

    ただし、macOS Sierra には、ルート直下の /Library/Dictionaries フォルダがなく、そこにフォルダを作って辞書ファイルをおいても使えなかった。

  2. ホームディレクトリ直下の ~/Library/Dictionaries フォルダに辞書ファイルを置いた。 奥村 晴彦先生のmacOSページを参照した。

  3. Dictionary.app の Preferences で類語辞典を選択する。

便利♪

2016年の初めに書いた「やらないことリスト」と自己採点

2016年1月6日に書いた「やらないことリスト」を,2016年の終わりが近づいていることもあり,見直してみた.

  • この「やらないことリスト」は,アウトプットを増やすことを目指したものである.
  • 否定形を使ったのは,自分自身へのメッセージとして強化されるかもしれない,と思ったからだ.
  • いくつかの項目は,アジャイルソフトウェア開発関連のプラクティスを参考にしている.

やらないことリスト2016と 自己採点

  1. 優先順位を決めずに,作業を始めるな.時間は限られている.
    • タスクやTODOを整理しろ.
    • 金曜日の夕方に,次週の見通しを立てる.
    • 前日の夕方か夜に,翌日の見通しを立てる.難しいときは,朝に計画を立てる.
    • 思いつきで,いろいろなことをやろうとするな.目先のやるべきことをやれ.
    • 自己採点:内容によって状況が変わっていくため,見通しや見積は,ほぼあてにならなかった.見積や計画より,チケットやTODOを作り,それに集中して消化する方法がふさわしいと感じた. 40点
  2. ふりかえりせずに,次に行くな.計画前に簡単にフィードバックせよ.
    • 自己採点:疲労と時間の関係で できなかった.この記事が唯一のふりかえりかもしれない 40点
  3. いくつかのことを同時に作業するな.だらだらやるな.時間を区切って集中しろ.
    • 25分間集中するポモドーロ法を使い倒せ(アプリは,値引きで安かったBe Focused Proを使用).
    • 作業中は,音楽を聴いて集中する.
    • 自己採点1:ポモドーロタイマーを使うにつれてリズムが作られる.ただし,ポモドーロ法があるから集中できたのか,切羽詰まっているから集中できたのかは明確ではないが,休憩も取りながらメリハリをつけられる.特に作業スピードが落ちていることを実感できる(計測の機能がある).
    •  自己採点2:自分の集中できる音楽であるU2XTC, Les Miserable,RCサクセションを聴きまくった.YouTubeの作業用音楽も重宝した.
    • 集中できた気がする 80点
  4. 注意を散漫させるものを近くにおくな(環境を整えろ).SNSやメールソフト,メッセンジャー,ゲームを開くな.通知を切れ.アプリを開くな.守れないときはアプリやブックマークを削除せよ.
    • 自己採点:通知がくると気になってしまう.アプリやブックマークの削除はよかった.習慣づけには環境を整えることから始める 90点.
  5. 作業環境やツールについて悩むな,浮気するな.
    • バックアップ環境で作業しようとするな.メイン環境で十分だ.
    • いろいろな環境やツールを試そうとするな.手元にあるMicrosoft WordやMarkdown (ツールBywordiA Writer),HTML+CSS(ツールSublime Texts)を使い,浮気するな.ツールを検討する時は,その時間をとろう.
    • 思考停止,大事.
    • 自己採点:たまに考えてしまうこともあるが,ほぼ できている.文書はBywordiA Writerで書き,Wordで体裁を整える運用が多かった. 80点
    • 参考:Wordで編集しているとファイルが壊れることが何度かあった.履歴管理できるバックアップ(macOS標準 Time Machine機能)には救われた,バックアップ重要. 自分で作った文書データと長い友達でいるためのメモ - ari's world
  6. 体に無理をさせるな.
    • ごはんやおやつを食べすぎるな.
    • スキマ時間で気持ちを整える.
    • 体を動かせ.
    • 自己採点:食事を取りすぎ,体を動かせていない.かなりボロボロの状態で,疲労回復が当面のテーマである 3点
  7. 家族との時間をおろそかにするな.大切にしろ.
    • 自己採点:家族の協力もあり,家族との時間はとれた.ほぼ100点

全体を通じた自己採点:

  • 去年の夏から一年間ぐらい集中して,自分なりにアウトプットの量は増えたと思う.この心がけの中で「3.時間を区切る(=メリハリをつける)」「4. と5. 集中できるような環境を整える」が,アウトプットの量に有効だったと感じる.
  • 否定形で表現したことによって,自分へのメッセージしては強まり,戒めとして働いた気がする.
  • この夏から,その反動がきていて疲労を感じる.疲労感が高いと,ほかの心がけにも悪い影響を及ぼしパフォーマンスに影響を出す.通年としては65点ぐらいだろうか.自分の疲労を発生させやすい原因を推定し,その対策を検討中もしくは実施中である. 

まだ終わっていない.たらたらといきますよー

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関連情報

スクラムのほつれとまなび

スクラムのほつれとまなび

2012年に書いた自分の理解のためのメモを恥を惜しんで公開する。すでに5年近く経過し情報も古いが、メッセージとしては色あせていないと思う。スクラムについて学びたいなら スクラムガイドからダウンロードできるし、様々な書籍や研修があるので、そちらを参照してほしい。

はじめに

スクラムを理解すべくジム・コプリエンさんによる認定スクラムマスター研修に参加した。私は、スクラムの名前を知ったときから、スクラムに対して感じていた違和感があった。その違和感は研修に参加している最中も解消せず、混乱していた。研修終了後も、本レポートを書くためにスターバックスで真っ白い画面を見つめながら数時間に渡って熟考していた。すると、突然、コプリエンさんが話していたことの地平が垣間見え、彼の発言が一貫性を持って見えてきた。

この記事で、その違和感が解消した理解がどのようなものであるかを紹介したい。スタート地点に立った当時のスナップショットであり、勘違いや思い違いもあるだろうが、私の主観や問いを通じて記述した多様性のひとつだとお許しいただきたい。スクラムの本質のひとつとして理解している 「失敗し、まなぶ」ことについて気づいたメモを共有させていただく。

当初感じていたスクラムの違和感

スクラムについての話を聞くたびに違和感を感じていた。最初、違和感は何であるか、わからなかった。スクラムの話を聞くと違和感を感じ、しばしば何を言っているのかわからなかった。たとえば、スクラムの理論を支える柱のひとつは透明性である。この透明性は、プロセスの「用語の共有」と「完了の定義」だけであるとはいえ、スクラムの最新版において、プロダクトオーナーと言われるプロダクトの責任者は、日々の打ち合わせに参加しないそうである。これは不透明な状況を引き起こさないのであろうか。透明さを論拠とするのであれば、みんなでチームであるからプロダクトオーナーも参加すべきでないのか。むろん忙しさや他の理由でプロダクトオーナーの参加がオプションとしているのは理解できる。しかし、日々の開発で質問がたくさん出るし、状況を把握する必要があるだろう。そのほかのプラクティスや状況を聞いてみて、うがってみると組織を分断させて、失敗を引き起こさせている、導入を難しくしているようにさえ見える。むろん原則は「透明性ではなくカプセルにして見えなくすることです」と主張しているのであれば納得できる。しかし、透明性を原則に据えるのであれば、その原則に従ってほしいと思ってしまうのである。なぜ原則とプラクティスがずれているのかがわからなかった。

そのような矛盾と感じられる例は挙げるときりがない。「平等/フラットであるべき」といいながら、スクラムフレームワークが不平等さや格差を産み出している。対話といいながら、組織的な分断や対立を起こす。ビジネスが変わって「今すぐ」なおす必要があったとしてもスプリントと言われる時まで待つなど迅速さ(アジャイル)を感じられない。むろんスクラムでは良く話題にあがるウォーターフォールが引き起こす悪い状況よりもマシなのであることは理解できる。じっくり考えても質問して話を聞いても、そのような矛盾が解消しないと感じるのである。スクラムの原則は矛盾であるとさえ感じられるような気さえする。おそらくは何らかの理解が私から欠落しているのだろうと実感していた。

そのような違和感を感じながら、今回はジム・コプリエン認定スクラムマスター研修を受けた。コプリエンさんは、スクラムの創始者のひとりである。その前には、ソフトウェア開発に関係するパタンコミュニティの創始者である。コプリエンさんは、合気道を学び、さまざまな方面に造詣が深い。このようなスクラムという枠組みを作った人から、スクラムについて学ぶ機会は貴重であった。

レッドピルかブルーピルか

認定スクラムマスター研修において、コプリエンさんからの最初の質問は、「ブルーピル(青い薬)か、レッドピル(赤い薬)か、どちらを飲みたいか」である。映画のマトリックスでネオという別名を持つトーマス・アンダーソンは、今いる世界ははっきりとはしないが何かが間違っていると感じていた。救世主を探していた人物モーフィアスに質問される。ブルーピルを飲むと今までいた世界で普通に目が覚め生活する、それは不思議の国にとどまる、奴隷であるままでいる。しかし、レッドピルを飲むと、真実の世界を知ることができる。我々は、どちらを選ぶのかを質問されたのである。ブルーピルは幸せな無知な幻想を表し、レッドピルは痛みある真実を示している。それが夢なのか現実なのか。

我々はレッドピルを選んだ。真実を知ることを選んだのだ。

コプリエンさんの研修は、このレッドピルを飲んで、現実の世界を知る。そして、幻想世界の奴隷から抜け出し自由に飛び回ることができるようになるのである。

幻想(ブルーピル)のスクラム

スクラムは、みっつの役割、みっつのミーティング、みっつのリストからできている。

  • 3つの役割
    1. プロダクトオーナー
    2. スクラムマスター
    3. 開発チーム
  • 3つのミーティング
    1. 計画(release/sprint)
    2. デイリースクラム
    3. スプリントレビュー
  • 3つのリスト
    1. プロダクトバックログ
    2. スプリントバックログ
    3. 障害リスト

みっつのリストは、プロダクトバックログ、スプリントバックログ、障害リストである。プロダクトに責任を持つプロダクトオーナーは、プロダクトバックログを用意し、重要度(ROI)順になおす。スプリント計画で、その重要度が高いものから順番にスプリントバックログに回す。開発者は、日々デイリースクラムをしながら、その一定期間であるスプリントバックログを実装する。スプリントが終わるとスプリントレビューでふりかえり、次のスプリントに向けた準備を行う。 しかし、コプリエンさんはこれらをブルーピル(青い薬)、つまり幻想であると主張する。ミーティングは儀式(セレモニー)、プロダクトバックログも幻想である、と講義中に述べている。

なぜ、コプリエンさんの言う幻想であるのか、もしくは、どのような状況を招くのかの例をいくつか挙げたい。

ほつれ1:原則とのズレがある

コプリエンさんは、リーンやトヨタ生産方式を良く例を出す。例えば、一般的なリーンソフトウェア開発の原則は、このようになっている。

  1. 無駄を排除する
  2. 品質を組み込む
  3. 知識を身に付ける
  4. コミットメントを遅らせる
  5. 迅速に引き渡す
  6. 人を尊重する
  7. 全体を最適化する

このような原則の中で、コプリエンさんは、価値のフローに回すためにムダを排除することを考えなさい、と特に話している。しかし、「レッドピルかブルーピルか」や「罰則はダンスである」というルールのコミットメントを求めている。そのほかのスクラムの熟練者(コーチ)も、コミットメントを早期に求める人が多い。そのような傾向から、最大の情報があるときまでコミットメントを遅らせるなどの リーンの原則に従っているわけではない。 そもそも原則に従っていないのだ。

ほつれ2: 多様性を排除する

研修中のゲームで、性差や価値観などの違いを認める多様性を大切にするとパフォーマンスを上げられたことを学んだ。一方で、スゴい人に頼ってしまうためその人をチームから外したところ、全体のパフォーマンスを上げられた事例が紹介された。そのほかにも、場にそぐわない人も辞めさせた、という話を何度か聞いている。

それは、「場」で調整するためには、ある程度の考え方や価値観の近さがないと個を引き寄せ、「場」を構成することができないからであろう。ある程度の近さがあると引き込みを起こして、その「場」が強化される。しかし、そのチームからある程度以上、離れている人は協調が難しいからであろう。

スクラムでは、多様性が大切と主張しながら、実態としてスゴい人やチームから外れている人は辞めさせる事例が紹介される。つまり、多様な人材を受け入れ涵養させられない(なじませられない)未熟さがある。多様性を前提としたフレームワークを採用もしくは構成できるにも関わらず、それをあらかじめ採用していない。

ほつれ3:対立を引き起こすような組織構造である

本研修で行われたゲームのひとつに、仕様を書く人と実現する人のコミュニケーションの難しさを実感するものがあった。ある絵を写すゲームで、仕様作成と実装を別々の人が行う。仕様を書く人は仕様を言葉だけで伝え、その言葉だけで伝えることの難しさを実感することが目的であった。しかし、踏み込んで考えてみると、仕様を考える人と実装する人の「場」が分離していることがそもそものコミュニケーションの難しさを作り出していることに気づく。実装する人はヒマであり、決めてくれないのなら「ビーチに行くぞ」という脅し文句を言うことすら学習するのである。

さらには、最後に行われたゲームにおいては、開発チームが一体にとなりベロシティ(開発スピード)を上げ、価値を産み出すゲームが行われた。その際、開発チームが一体となる一方プロダクトオーナーと対立し、ねんざする者まで出してしまった。これは、対立や衝突を引き起こす組織的な構造による 当たり前の結果だ。むろん適切に価値を流通させるために様々なテクニックが使われるし、そのような運用がなされているだろう。そもそも対立や衝突を引き起こすような組織構造が作られている以上、共に協調して調和するように実施することは原理的に困難なのである。

現実(レッドピル)のスクラム

幻想の中ではなく、現実のスクラムはどのようにするのであろうか。

失敗、それが情報である

ホワイトボードに多数の線を引き、エンジニアであるかと確かめた上で、これはどれだけの情報があるのかを質問された。16本の線があったので2の16乗になるのかとの答えについて、こちらの情報はゼロである。つまり、同じものが続いているデータから得られる情報はゼロ。成功しているものから得られる情報はゼロである、とのことである。つまり、失敗して情報を得なくてはならない。失敗が重要になってくる。

スクラムにおける平均的なバグに対する対応時間の割合は20%とのことである。コンパイルエラーもバグと換算され、お客様に影響を及ぼしたもとは違うとのことではある。しかしながら、バグ対応率が20%と聞いたときに、私自身は多いな、と感じてしまった。少なくともムダではなかろうか。しかし、それをフレームワークに組み込むことはしていない。つまり、エラーを瞬時に発見する仕組みが欠如している、もしくは、あえてバグや問題を発生するような組織やプロセスデザインがされているのである。

なぜなのであろうか。それは、失敗させて学び・改善することを目的にデザインされているからである。もしくは、結果として最大化させることになった。それが、今回の気づいたことである。

守破離

守破離(しゅはり)」は、日本における茶道や武道などにおける考え方のひとつである。守破離とは、守(しゅ)、破(は)、離(り)のみっつの段階をつなげた言葉である。

  1. 「守」とは、何らかのものを学ぶとき師匠や先生に徹底的に従いなさいという意味である。師匠が掃除せよ、床を磨け、と指示を受けたなら、疑問を持たずに、その指示を徹底するのである。それにより、体にしみ込ませることができる。
  2. 「破」とは、従っているうちに全体が見通せてきた状態である。全体が見通せてきているので、師匠や流儀に従いながらも自分の判断で行動できるようになっている。
  3. 「破」とは、全体を見通した後、自分ならではのやり方を作り出す段階である。この段階では、一通りやり方を知っている上で、変化した状態にあわせる。

コプリエンさんは、この「守破離」をよく言葉にしていた。青い薬を選んだ幻想のスクラムも三回のスプリント程度は実施し、学ぶように伝えている。つまり、目的は失敗から学び改善することであり、その結果、価値の流れを作ることである。スクラムのプラクティスは、そのツールのひとつでしかない。そう、その視点こそが、青い薬なのである。

自分で考えなさい

スクラムは、ウォーターフォールよりマシなのかもしれないけれども、微妙に問題を発生させ、領域を分断し、局所的な最適が進むように、あえてデザインされているように見える。その結果、3回という少ないイテレーションで全体を把握した後は、それを離れる必要がある。つまり、スクラムというフレームワークに従うのではなく、そのフレームワークを実践したら、離れてしまいなさいと問いかけているように注意深くデザインされている。強力な「まなび」を引き起こすように手ぐすねを引いて待っているのだ。「具体的に何をすればいいのか?」や「代替え策は何であるのか」に対して「自分で考えなさい」と答えているのだ。

「場」の領域

当初感じていた違和感のひとつの考え方に「場」があった。スクラムにおいて、「場」もしくはシステム(系、つながり)領域の分断が分析される。チーム内部ではフラットであったとしても価値の流れから考えると、プロダクトオーナーと開発チームの間には「場」が分断されている。守破離の「守」では開発チームが領域になっている。つまり、仮想敵を作り、チームを仲良くするかのように見えるのだ。

コプリエンさんに確認したところ、こちらも守破離で、領域を拡大するとのことだ。最初は「守」の限られた領域で安心して開発を行うことを学ぴ、次には、この見通せるようになった「破」を迎える。その後、「離」の段階で、その領域を拡大するのだ。この領域は拡大していくことによって、価値の流れをスムースにしていくのである。つまり、普通に学んでいるスクラムは、「守」のスクラムに過ぎない幻想のスクラムで述べたロールやプロセスなどから離れ、自らの状況にあわせデザインしなければならない。

自分で考えたものの、それだけでは単なる制約のない状態になってしまい、カオスの状態になる傾向がある。その学びを調整するために「場」に影響を与え、その場からの影響を受けながら適応していく。その結果、協調を引き起こし、「場」が活性化していく。

究極スクラム (Scrum The Ultimate)

バグを減らすこと、または品質を作り込むことを、なぜ取り込まないのか。対立や衝突を起こさず協調するようなデザインにしていないのか。なぜスゴい人をも巻き込んで全体のパフォーマンスを上げる構造にしていないのか(歴史的および私の経験から、そのようなフレームワークは存在する)。それらをフレームワークとしてデザインしないことは「失敗させ自分で考えること」を強制させ気づくためである、というコト以外、現時点では思いつかない。

スクラムの伝道者や実践者は、スクラムを実践する上であなたは考えていますか、と突きつけられているのである。まさしくそれは困難な修行のような道筋であろう。それを抜け出す方法が、コプリエンさんのメッセージである「自分で考えなさい」ということである。そのような構造がスクラムの本質であるととらえた。つまりスクラムは、スクラム自身が提唱する構造やプロセスさえも自分で考え、場合によっては否定して作り直しなさい、と語りかけているのである。

スクラム自身を否定するスクラム、まるで「空(くう)」のような構造を持っているかのようだ。それをスクラムと言うべきなのか、私にはわからない。たしかに、コプリエンさんの「何がスクラムであるとは言えない」の言葉を改めて思い出した。

レッドピルを飲んだ我々は、真実を見つめ、奴隷から抜け出し、そして空を自由に飛ぶのである。

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これは、あくまで 執筆時点において理解したスクラムについてのメモである。間違いや不適切な理解が含まれているだろうし、5年間のうちに私自身の中でもアップデートされている。ただ、もし言わんとするメッセージについて興味を持っていただけたら、うれしく思う。こっそり公開してみる。

かけ算の順序問題をゆるく考えよう

かけ算の順序問題をゆるく考えよう

このところ、かけ算の順序の問題がFacebookTwitterなどのタイムラインに流れてくる。まさしく次男(二年生)は、かけ算を学んでいるところである。さあ、無視するのもひとつだが、どう教えようか悩ましいところだ。数日に渡り、子どもたちと話してきたことを簡単にまとめる。

かけ算の順序問題とは

かけ算の順序問題 - Wikipediaより引用する

かけ算の順序問題は、かけ算によって解が得られる算数の文章題において、特定の順序で書かれた式のみを正解とする採点方針と、どの順序で書かれた式でも正解とするべきであるという主張の対立である。

例えば、1つぶんの数×いくつ分で求まるかけ算の文章問題では、「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい。みかんはいくつあればよいでしょうか。」という設問に対する、「(しき)6 × 4 = 24(こたえ)24 個」という解答を不正解にすべきかどうかが問題となる。

つまり、

(かけられる数)× (かける数)

もしくは

(単位あたりの数)×(乗数)

の順番ではない式を回答した場合、間違い(ぺけ)とするかどうか、と言う議論である。

「かけ算の順序」問題の議論

試しに「かけ算 順序」で検索するとホットなトピックになっているためか、たくさんの検索結果がある。例えば、こんな感じだ:

調べれば調べるほど、長期間にわたって議論がされている。今のところ順序を間違ったとしてペケをつけることに否定的な意見が多いようだ。

とりあえず、説明や議論…できなかった

次男(小学二年生)は、かけ算の勉強をしている最中である。

  • 子どもに説明してみたんだけど…

    「2×3と3×2が同じ答えになるんだね」と、順番を変えても同じ答えになること(交換法則)に子どもが自ら気がついた。実数のかけ算は順番を変えても答えが同じになることを話した。自分が書いた絵と同じ絵がWikipediaにあったので貼り付けると:

    MikanTable2 - wikipedia

    この図によって、かけ算の順番が変えられることは説明できた。さらに『算数に教えるのに必要な素養 (PDF)』のエッセンスを説明しようと試みたが、その時は適切な伝達が難しかった。聞く方も訳がわからない感じだった(もう少し整理できそうなので、後で再試行する予定である)。

  • 先生と議論してもいいけれど…

    子どもたちが通っている小学校の教員は、知識や技術もあり熱心に教えてくださっており、感謝している。様々な教務だけでなく、事務や学習、イベントのため極めて忙しい状態に見える。その中で、 かけ算の順序問題についての議論を学校の先生としても負担になってしまい「学ぶこと」の恩恵が全体として減ってしまうと心配する。

    小学校では、かけ算を学び、計算の練習し、九九を覚える、などの一連のカリキュラムが進んでいる。先生に議論して、時間の制約もあるので全体の方針を変えるようなことは現実的に困難である。

ゲームとして考えてみる

子どもたちには 「ゲーム」について話をした。その習慣や正解は、そのゲームの中で成り立っていることを理解する。 なお、子どもたちにわかりやすいようゲームと読んでみた。この場合、ゲームとは「共通のルールの交換/前提としながら複数のプレイヤーが関係すること 」として幅広い意味で用いている(文化とも考えられるだろうが、あとで書きたい)。

  • 「食事をするときは、きちんとお箸を持ちなさい。ただし、お箸を持たない他の国もあるよ。例えば、インドではね…らしいよ」
  • 「きちんとご挨拶しなさい。ただし、挨拶しない国もあるよ。例えば、○○○ではね…」

そのゲームを選択するかどうか、ゲームにのるかどうかを含めて自分で考える。 ゲームにのって「郷に入っては郷に従う」かどうかを選択する。この場合、自分で考えるより、ゲームにのる方が良さそうな例として:

  • 「例えば、カタカナのアイウを練習している時に考えても難しいよね、教えられたように練習することも大切だよね」
  • 「例えば、空手、能や狂言について知らないよね。それらを理解する(わかる)のに数年(それ以上)かかる。相手を選んで従いなさい。」

ゲームを意識することによって、その自分が当たり前と思っている常識や正しさを含めて考える。

今回の算数については、このように子どもたちと話し合った:

  1. かけ算の意味や計算を学ぶ(ゲームのルールについて知る)。
  2. かけ算の順序が交換可能であるか一緒に考える(他のゲームについて知る)。例えば、 第1話 - 落語・掛け算(山本弘) - カクヨムは楽しかった。英語圏では順序が逆になることを一緒に調べた。
  3. その上で、小学校で行われている かけ算の順序について一緒に考えた(ゲームにのるかどうかを考える)。
    • 日本語の文章題を式にする練習のため、このように順番を大切にしているのではないか。
    • もう少しすると、(子ども自ら発見したものと同じ)交換法則を学ぶことを知るので、過渡的な勉強なのではないか。
    • テストの点数を取るため、この順番について勉強するのが適切な選択と考えられる。
  4. 教科書やドリルを使って学ぶ(ゲームにのる)
  5. たまにふりかえる(ゲームの中にいることを確認する)

子どもたちは「ゲームとして、やるか/やらないかを考える」ことを たぶん理解したようだ。

まとめ

  1. かけ算の順序が 長い期間にわたって議論されている。
  2. この議論を、当事者(かけ算を学んでいる小学二年生とその親)として 収束させることは現実的に困難である。
  3. この問題をゲームとして理解し、ゆるめる(相対化する)ことにより、ゲームにのる/おりるを選択する
  4. その結果、長期的で複数の視点の獲得によって自由を得られるとも言えるだろう。

これからは…

かけ算の順番についての議論を無視して、先生に教わったことをそのまま従えば、テストの点数を取るためには効率的かもしれない。しかしながら、常識や正しさが変わってしまう時代になってきた。教科書や指導法も、時代によって変化している。そのような時代を生きていくために、そのまま学習するのではなく、その学び方も合わせて考えることによって、とらわれにくくなることも必要ではなかろうか。ゆるめることで俯瞰し、楽しんで学習し、そして、スッキリ身につけていきたい。

今まさに試していることを紹介したものの ゲームとして考える方法だけでなく、いくつもの他に選択肢がある。まだしばらく小学二年生はかけ算の勉強中であるので、これからも見守っていきたい。

関連情報/参照情報

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なぜ小学生はランドセルを使って通学するのだろうか

なぜか、この記事が書いてあったので公開しておく。


「なぜランドセルは無償支給ではないのか 一部の子供がリュックサックで登校している現実」を読んで、不思議に思っていることがある。それは、なぜランドセルを使うのかということだ。

子どもが通う公立小学校の入学案内や新年度案内には「ランドセル」が必要であると書いてあるため、地域の小学校における全生徒がランドセルを用いている。怪我など妥当な理由がある時を除き、通常ランドセルを用いるルールとなっている。

ランドセルとデイパックを比較する

学童保育の時に用いているリュックやデイパックがある。ランドセルとデイパックを比較してみたい。

ランドセルは重たい

ふんわり天使の羽が生えているような宣伝をしているランドセルもある。調べてみると、だいたい1kg前後ぐらいの重量とのことだ。子どもたちが使っているデイパックの重さは0.6kgであった。入れ物の重さが1.7倍近く違う。

何も授業がない日でもランドセルの1kg強の重さがかかっている。これに6時間分の教科書とノート、連絡帳や筆記用具、防犯ブザーなどが入る。大人が持っても ずっしりと重たいと感じる。私自身は、約2kgのラップトップPC (2012年のMacBook Pro 15" Retina)ですら重たく感じ「亀仙人の修行」と話すぐらいである。小学生が、これ以上の重さを毎日持ち歩いていることになる。

つまり、軽くなってきていることは評価するが、ランドセルは軽いとは言えないのだ。

ランドセルには荷物が入りきらない

曜日(時間割)によって、教科書とノート、筆記用具を持って通学する。さらに授業で用いる習字やお絵かきの道具、上履き、体操着、給食当番の白衣、習い事(お花)の道具など、持っていくものは沢山ある。学期の初めと終わりには、道具箱や防災頭巾などなど荷物が多い。

ランドセルには、曜日(時間割)によっては教科書とノート、筆記用具ですら入りきらない。無論、道具や着替えなどを入れる余裕などない。

入りきらない荷物を運ぶため、学校指定の大きさの手提げバックを持ち、さらに肩から絵の具セット、手には習字道具などを持っている。 荷物が入らないのである。ランドセルを使っていると荷物が入らないから不自由で、両手もふさがり 安全性も損ねられる

あまりに教科書とノートが重たいため、ランドセルに入りきらないことを担任の先生に説明した。担任の先生は「持ってくるもの」を指示するようになって荷物が減った。しかし、それでも重たいのだ。

ランドセルは値段が高い

ランドセルの平均購入価格は…39,540円とのことである。6年間使えるように保証もつき、作りや手縫いなど、いろいろ機能が入っている。

しかし、デイパックは5000円弱なので、ランドセルの8分の1の値段である。毎年一つ買ってもデイパックの方が安いのである。このような価格なら用途に合わせて用意することもできる。

ランドセルを使う理由は妥当だろうか

なぜ、荷物が入らず、柔軟性も少なく、値段も高いランドセルを使うのだろうか。歴史を見ると、軍隊で使用されていた背嚢(はいのう)が由来と書いてあった。いまいち納得できる理由はなかった。

  1. 小学生の存在をアピールすることも理由にならない :小学生が通学していることをアピールすることによって、安全を確保する必要性があるのかもしれない。ただ、もし通学をアピールする必要であれば帽子やバッジなど他のツールがあるだろう。私が属している行政区では小学校ごとに違った校帽をかぶっているので、どの学校に通っているか帽子を見るだけでわかる。一年生は配布された札をつけているので、サポートもしやすい。

  2. 授業の集中を邪魔することも理由にならない:もしランドセルでなければ面白いカバンを持ってしまい、注意散漫になってしまうのが心配なのかもしれない。ただ、通学カバンを選ぶポイントを書けば済むこと。子どもたちが通う公立小学校でも、筆箱や消しゴムにキャラクターはつけない、などの具体的な指示があって、授業の邪魔をしないように工夫されている。

  3. 両手がふさがらないことも理由にならない:前述の通り、ランドセルには教科書も入りきらず、絵の具や習字道具、体操着などがランドセルに入らないため、両手と両肩に荷物をかけている状態である。

  4. 壊れずに長く使えるわけではない: うちの子どもたちが使っているランドセルは、あるブランドの中でも高級ランクのものを選択し、6年間の保証が付いている。丁寧に使っているようだったが、半年もしないうちに金具や部品が取れてしまった。修理に必要な期間は数週間も必要であるため、夏休みを除いて現実的な修理ができなかった。現在、壊れたまま使用している。良いものを丁寧に扱う例としては十分ではなかった。

結局のところ、「他人と少しでも違うことがあれば、すぐに指摘し笑いものにする。」のように、他の人と一緒だから使っている、という理由が現実的なところではないだろうか。現状の小学校において、他人と合わせ目立たないことも大切だと思っている(正確には「両方のバランスを取りなさい」と教えている)。

ただ ランドセルは、重いことで子どもに負担をかけ、荷物が入りきらないことで子どもが不便をし安全性を損ねることは、子どもにとっても不自由ではないだろうか。子どものズッシリと重たいランドセルを持ち上げるたびに、なんでだろうな、と疑問に思う。

ランドセル以外の選択肢も普通にあるといいな

私が小学校高学年のときは、ショルダーバッグやデイパックを使っていて問題点はなかった(東京都の城南地区である)。お金がないと指摘されたこともないし、むしろ優越感にも似た気持ちを感じたような気がする。

他の人と合わせるために、ランドセルを使うのはから使うにしては不自由すぎるのではないだろうか。自分のスタイルを考え、スタイルにあったカバンを選ぶ自由と喜びがある。他の人がやっているから、という理由だけで、自分で考える喜びや、選択の妥当性を考えても良いのではないだろうか。

うちの子どもたちは、通っている公立小学校の入学案内に「ランドセル」と書いてあったため、そのままランドセルを使っている。荷物と重たいランドセルを持って通っている。荷物が多い日は、大きなデイパックやリュックサックを用いるなど、楽な選択肢が取れると良いなと思う。

都立高校の制服のように、制服も含めて洋服を選べるスタイルは妥当だと感じる。無論ランドセルが好きで使いたい子どもは自由に使えば良いと思う。ランドセルをやめてデイパックや自由なカバンにすれば、親も子供も経済的にも物理的にも楽になると思う。なにより安全に通学できる、というのが嬉しいのではないか。

日々の生活や勉強を優先して交渉や議論はしていないが、ランドセルやリュックサック、デイパックなど みんなが自分自身にふさわしい格好を考えて通学できれば良いなとつねづね思っている。機会や興味があったときに校長や教育委員に聞いてみるのもいいのかもしれない。

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