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運動会で場所取りする話し

運動会で場所取りする話し

子どもの通っている小学生は、おおよそ600名の児童数だ。 東京の この行政区においては、小学校の平均在席児童数が約410名なので、比較的大きめの学校である。

運動会も、気合いが入っている。 六年生のマーチングバンドも、曲数も多く、音楽や行進の質も高く、感動して涙が出てくる。 四年生の一輪車の演技も、学年全員が一輪車に乗れているだけでなく、息も合っていて感銘してしまう。 それ以外の学年も、力が入っている。 これだけの圧倒的なパフォーマンスを提供されると「うわーっ」としか声が出せない。 どれだけ練習したのだろう。

都内の学校なので、校庭はそんなに余裕があるわけではなく、観戦できる場所が限られている。 カメラやビデオに、自分の子どもの姿を納めるために、朝から場所取りするんだろうな、と思っていた。 しかしながら、下にも赤ちゃんがいるので、朝から場所取りにもせず、のんびり小学校に向かった。 よい場所でのカメラ撮影や観戦は、あきらめながらもだ。

しかし、場所取りをしていないにも関わらず、カメラやビデオ撮影や観戦は、ほぼほぼ問題なかった。 いや、いい場所で観戦し、撮影できた、と言えよう。

なぜか。

簡単なことである。

自分の子どもが出場するときに、親御さんが前に行って撮影し、子どもが退場すると、その親御さんは後ろに下がる。 場所を共有し、譲り合っているから、けっこう一番良い場所は空いている。 その結果、誰もがよく観戦でき、良い写真も撮れる。

下の子どもが前に来たけれど、演技が見えないようだった。 カメラの操作に気を取られていたら、見知らぬ人が「見える?だっこしようか?」と助けてくれた。 ぴりぴりしておらず、助け合っている。

なんで、このようになったのかは、よくわからない。 よく見ると、A4の紙に「譲り合ってください」と書いてあることを発見した。 でも、後ろに貼ってあるだけで、どう見ても目立つ場所ではない。 その場の風潮や文化が醸成されていた、としか言いようがない。

二年間の観察範囲において「これは私の場所だから入らないでね!」と話す人は見たことがなかった。 もし自分だけの場所を主張する声の大きな人がいたら、その場所は変わってしまうだろう。 この譲り合って助け合う風潮や文化は貴重だけれど、もろく壊れやすいのかもしれない。


秋山仁の遊びからつくる数学―離散数学の魅力』では、グラフ理論が急激に発展した原因は、他の分野に比べると非常に家庭的なのアットホームであり、だれが一番貢献したかとか言う争いは止めようよと紹介されていた。 とんでもないアイデアが出てきても、批判せず、どのように改善すれば良いのかをみんなで育てている。

著者順は貢献した人から書くのが一般的であるが、そこでは関係者をABC順に入れるぐらいに徹底している。 みんなを平等の著者として扱うことによって、みんなで成果を共有する。

その結果、そのコミュニティは、数学の、いや、世界の大きなひとつの流れを作り出した。


先日、ある会議に行った。 その場所は、みんなで助け合うことができていた場所だった。 昔、世界を大きく塗り替えるような革新的な成果をいくつも出していた。 世界中のみんなが「当たり前のこと」として毎日のように使っているようなものだ。

そこでは、いいアイデアがあると、それを助け合うようなグループを作り、みんなで育ててレベルアップしていた。 何冊もの本が出ているし、いくつもの世界(分野)が生まれてくる場所だった。

しかしながら、今、その場所は違う。

ある方が教えてくれた。 ほかの人から良さそうなアイデアを聞けば、それをすぐに試してみて、自分の論文として発表するそうだ。 さらに、彼は、すでに発表された論文を読んで「この論文は素晴らしい。自分だったら名前を変えて発表するよ。」と彼は話した。 その後、彼は、その論文を引用せず、アイデアの名前を変え、発表していたようだ。 多くの関係者は、彼の仕事だと思うだろう。

そういえば、別の人もディスカッション中にアイデアに対し「そのアイデアを、あなたより早く論文に書きます」と宣言していたことを思い出した。

彼らの言う通り、この世界は戦いで誰がその場所をとるのかが大切だ。 つまり、場所取りが大切なのだ。 その意見は、おそらく正しいのかもしれない。

その結果、その場の家族のような雰囲気はなくなり、新しいアイデアやコメントを安心して話せなくなってしまった。 助け合う風潮は廃れ、競合し、戦いの場所になってしまった。 ある分野の世界でトップに入るような人は、彼の論文に対するコメントの質の低さに怒り出し、ついには呆れていた。

たまたまなのかもしれないが、ここ最近、その分野は着目されているにも関わらず、革新的で創造的なアイデアはまったく耳にしない。 せっかく素晴らしい人が集まっているのに極めて残念なことだ。

日常生活だけでなく、ビジネスでも学術でもどこでも、場所取り問題がある。お互いを尊敬し信頼し、助け合う風潮は貴重だけれど、もろく壊れやすい


どうやって安心して、意見を出し合い、アイデアや結果を共有し、ゆずりあい、助け合うような文化を醸成し、それを維持するのか。 もし、そのような文化が再び醸成できれば、グラフ理論が世界を大きく変えたように、大きく世界を変えることがいくつもできるだろう。

何はともあれ、自分ができることをやって、自分の道をしっかりと歩みたい。

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追記 (2014/12/31)

関連する情報として秋山仁の遊びからつくる数学―離散数学の魅力 (ブルーバックス)を追加し、それに合わせて本文を修正しました。