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スクラムのほつれとまなび

スクラムのほつれとまなび

2012年に書いた自分の理解のためのメモを恥を惜しんで公開する。すでに5年近く経過し情報も古いが、メッセージとしては色あせていないと思う。スクラムについて学びたいなら スクラムガイドからダウンロードできるし、様々な書籍や研修があるので、そちらを参照してほしい。

はじめに

スクラムを理解すべくジム・コプリエンさんによる認定スクラムマスター研修に参加した。私は、スクラムの名前を知ったときから、スクラムに対して感じていた違和感があった。その違和感は研修に参加している最中も解消せず、混乱していた。研修終了後も、本レポートを書くためにスターバックスで真っ白い画面を見つめながら数時間に渡って熟考していた。すると、突然、コプリエンさんが話していたことの地平が垣間見え、彼の発言が一貫性を持って見えてきた。

この記事で、その違和感が解消した理解がどのようなものであるかを紹介したい。スタート地点に立った当時のスナップショットであり、勘違いや思い違いもあるだろうが、私の主観や問いを通じて記述した多様性のひとつだとお許しいただきたい。スクラムの本質のひとつとして理解している 「失敗し、まなぶ」ことについて気づいたメモを共有させていただく。

当初感じていたスクラムの違和感

スクラムについての話を聞くたびに違和感を感じていた。最初、違和感は何であるか、わからなかった。スクラムの話を聞くと違和感を感じ、しばしば何を言っているのかわからなかった。たとえば、スクラムの理論を支える柱のひとつは透明性である。この透明性は、プロセスの「用語の共有」と「完了の定義」だけであるとはいえ、スクラムの最新版において、プロダクトオーナーと言われるプロダクトの責任者は、日々の打ち合わせに参加しないそうである。これは不透明な状況を引き起こさないのであろうか。透明さを論拠とするのであれば、みんなでチームであるからプロダクトオーナーも参加すべきでないのか。むろん忙しさや他の理由でプロダクトオーナーの参加がオプションとしているのは理解できる。しかし、日々の開発で質問がたくさん出るし、状況を把握する必要があるだろう。そのほかのプラクティスや状況を聞いてみて、うがってみると組織を分断させて、失敗を引き起こさせている、導入を難しくしているようにさえ見える。むろん原則は「透明性ではなくカプセルにして見えなくすることです」と主張しているのであれば納得できる。しかし、透明性を原則に据えるのであれば、その原則に従ってほしいと思ってしまうのである。なぜ原則とプラクティスがずれているのかがわからなかった。

そのような矛盾と感じられる例は挙げるときりがない。「平等/フラットであるべき」といいながら、スクラムフレームワークが不平等さや格差を産み出している。対話といいながら、組織的な分断や対立を起こす。ビジネスが変わって「今すぐ」なおす必要があったとしてもスプリントと言われる時まで待つなど迅速さ(アジャイル)を感じられない。むろんスクラムでは良く話題にあがるウォーターフォールが引き起こす悪い状況よりもマシなのであることは理解できる。じっくり考えても質問して話を聞いても、そのような矛盾が解消しないと感じるのである。スクラムの原則は矛盾であるとさえ感じられるような気さえする。おそらくは何らかの理解が私から欠落しているのだろうと実感していた。

そのような違和感を感じながら、今回はジム・コプリエン認定スクラムマスター研修を受けた。コプリエンさんは、スクラム創始者のひとりである。その前には、ソフトウェア開発に関係するパタンコミュニティの創始者である。コプリエンさんは、合気道を学び、さまざまな方面に造詣が深い。このようなスクラムという枠組みを作った人から、スクラムについて学ぶ機会は貴重であった。

レッドピルかブルーピルか

認定スクラムマスター研修において、コプリエンさんからの最初の質問は、「ブルーピル(青い薬)か、レッドピル(赤い薬)か、どちらを飲みたいか」である。映画のマトリックスでネオという別名を持つトーマス・アンダーソンは、今いる世界ははっきりとはしないが何かが間違っていると感じていた。救世主を探していた人物モーフィアスに質問される。ブルーピルを飲むと今までいた世界で普通に目が覚め生活する、それは不思議の国にとどまる、奴隷であるままでいる。しかし、レッドピルを飲むと、真実の世界を知ることができる。我々は、どちらを選ぶのかを質問されたのである。ブルーピルは幸せな無知な幻想を表し、レッドピルは痛みある真実を示している。それが夢なのか現実なのか。

我々はレッドピルを選んだ。真実を知ることを選んだのだ。

コプリエンさんの研修は、このレッドピルを飲んで、現実の世界を知る。そして、幻想世界の奴隷から抜け出し自由に飛び回ることができるようになるのである。

幻想(ブルーピル)のスクラム

スクラムは、みっつの役割、みっつのミーティング、みっつのリストからできている。

  • 3つの役割
    1. プロダクトオーナー
    2. スクラムマスター
    3. 開発チーム
  • 3つのミーティング
    1. 計画(release/sprint)
    2. デイリースクラム
    3. スプリントレビュー
  • 3つのリスト
    1. プロダクトバックログ
    2. スプリントバックログ
    3. 障害リスト

みっつのリストは、プロダクトバックログ、スプリントバックログ、障害リストである。プロダクトに責任を持つプロダクトオーナーは、プロダクトバックログを用意し、重要度(ROI)順になおす。スプリント計画で、その重要度が高いものから順番にスプリントバックログに回す。開発者は、日々デイリースクラムをしながら、その一定期間であるスプリントバックログを実装する。スプリントが終わるとスプリントレビューでふりかえり、次のスプリントに向けた準備を行う。 しかし、コプリエンさんはこれらをブルーピル(青い薬)、つまり幻想であると主張する。ミーティングは儀式(セレモニー)、プロダクトバックログも幻想である、と講義中に述べている。

なぜ、コプリエンさんの言う幻想であるのか、もしくは、どのような状況を招くのかの例をいくつか挙げたい。

ほつれ1:原則とのズレがある

コプリエンさんは、リーンやトヨタ生産方式を良く例を出す。例えば、一般的なリーンソフトウェア開発の原則は、このようになっている。

  1. 無駄を排除する
  2. 品質を組み込む
  3. 知識を身に付ける
  4. コミットメントを遅らせる
  5. 迅速に引き渡す
  6. 人を尊重する
  7. 全体を最適化する

このような原則の中で、コプリエンさんは、価値のフローに回すためにムダを排除することを考えなさい、と特に話している。しかし、「レッドピルかブルーピルか」や「罰則はダンスである」というルールのコミットメントを求めている。そのほかのスクラムの熟練者(コーチ)も、コミットメントを早期に求める人が多い。そのような傾向から、最大の情報があるときまでコミットメントを遅らせるなどの リーンの原則に従っているわけではない。 そもそも原則に従っていないのだ。

もしスクラムアジャイルであるとするならば、アジャイル開発宣言とも矛盾しているようにみえる:

  • プロダクトオーナーと開発チームを分けたように個人の対話を分断し、スプリントなどのプロセスに価値を置く
  • 変化に対応することより、スプリントやリリースの計画に従うことに価値を置く

アジャイル開発宣言にも、従っていないのだ。

ほつれ2: 多様性を排除する

研修中のゲームで、性差や価値観などの違いを認める多様性を大切にするとパフォーマンスを上げられたことを学んだ。一方で、スゴい人に頼ってしまうためその人をチームから外したところ、全体のパフォーマンスを上げられた事例が紹介された。そのほかにも、場にそぐわない人も辞めさせた、という話を何度か聞いている。

それは、「場」で調整するためには、ある程度の考え方や価値観の近さがないと個を引き寄せ、「場」を構成することができないからであろう。ある程度の近さがあると引き込みを起こして、その「場」が強化される。しかし、そのチームからある程度以上、離れている人は協調が難しいからであろう。

スクラムでは、多様性が大切と主張しながら、実態としてスゴい人やチームから外れている人は辞めさせる事例が紹介される。つまり、多様な人材を受け入れ涵養させられない(なじませられない)未熟さがある。多様性を前提としたフレームワークを採用もしくは構成できるにも関わらず、それをあらかじめ採用していない。

ほつれ3:対立を引き起こすような組織構造である

本研修で行われたゲームのひとつに、仕様を書く人と実現する人のコミュニケーションの難しさを実感するものがあった。ある絵を写すゲームで、仕様作成と実装を別々の人が行う。仕様を書く人は仕様を言葉だけで伝え、その言葉だけで伝えることの難しさを実感することが目的であった。しかし、踏み込んで考えてみると、仕様を考える人と実装する人の「場」が分離していることがそもそものコミュニケーションの難しさを作り出していることに気づく。実装する人はヒマであり、決めてくれないのなら「ビーチに行くぞ」という脅し文句を言うことすら学習するのである。

さらには、最後に行われたゲームにおいては、開発チームが一体にとなりベロシティ(開発スピード)を上げ、価値を産み出すゲームが行われた。その際、開発チームが一体となる一方プロダクトオーナーと対立し、ねんざする者まで出してしまった。これは、対立や衝突を引き起こす組織的な構造による 当たり前の結果だ。むろん適切に価値を流通させるために様々なテクニックが使われるし、そのような運用がなされているだろう。そもそも対立や衝突を引き起こすような組織構造が作られている以上、共に協調して調和するように実施することは原理的に困難なのである。

現実(レッドピル)のスクラム

幻想の中ではなく、現実のスクラムはどのようにするのであろうか。

失敗、それが情報である

ホワイトボードに多数の線を引き、エンジニアであるかと確かめた上で、これはどれだけの情報があるのかを質問された。16本の線があったので2の16乗になるのかとの答えについて、こちらの情報はゼロである。つまり、同じものが続いているデータから得られる情報はゼロ。成功しているものから得られる情報はゼロである、とのことである。つまり、失敗して情報を得なくてはならない。失敗が重要になってくる。

スクラムにおける平均的なバグに対する対応時間の割合は20%とのことである。コンパイルエラーもバグと換算され、お客様に影響を及ぼしたもとは違うとのことではある。しかしながら、バグ対応率が20%と聞いたときに、私自身は多いな、と感じてしまった。少なくともムダではなかろうか。しかし、それをフレームワークに組み込むことはしていない。つまり、エラーを瞬時に発見する仕組みが欠如している、もしくは、あえてバグや問題を発生するような組織やプロセスデザインがされているのである。

なぜなのであろうか。それは、失敗させて学び・改善することを目的にデザインされているからである。もしくは、結果として最大化させることになった。それが、今回の気づいたことである。

守破離

守破離(しゅはり)」は、日本における茶道や武道などにおける考え方のひとつである。守破離とは、守(しゅ)、破(は)、離(り)のみっつの段階をつなげた言葉である。

  1. 「守」とは、何らかのものを学ぶとき師匠や先生に徹底的に従いなさいという意味である。師匠が掃除せよ、床を磨け、と指示を受けたなら、疑問を持たずに、その指示を徹底するのである。それにより、体にしみ込ませることができる。
  2. 「破」とは、従っているうちに全体が見通せてきた状態である。全体が見通せてきているので、師匠や流儀に従いながらも自分の判断で行動できるようになっている。
  3. 「破」とは、全体を見通した後、自分ならではのやり方を作り出す段階である。この段階では、一通りやり方を知っている上で、変化した状態にあわせる。

コプリエンさんは、この「守破離」をよく言葉にしていた。青い薬を選んだ幻想のスクラムも三回のスプリント程度は実施し、学ぶように伝えている。つまり、目的は失敗から学び改善することであり、その結果、価値の流れを作ることである。スクラムのプラクティスは、そのツールのひとつでしかない。そう、その視点こそが、青い薬なのである。

自分で考えなさい

スクラムは、ウォーターフォールよりマシなのかもしれないけれども、微妙に問題を発生させ、領域を分断し、局所的な最適が進むように、あえてデザインされているように見える。その結果、3回という少ないイテレーションで全体を把握した後は、それを離れる必要がある。つまり、スクラムというフレームワークに従うのではなく、そのフレームワークを実践したら、離れてしまいなさいと問いかけているように注意深くデザインされている。強力な「まなび」を引き起こすように手ぐすねを引いて待っているのだ。「具体的に何をすればいいのか?」や「代替え策は何であるのか」に対して「自分で考えなさい」と答えているのだ。

「場」の領域

当初感じていた違和感のひとつの考え方に「場」があった。スクラムにおいて、「場」もしくはシステム(系、つながり)領域の分断が分析される。チーム内部ではフラットであったとしても価値の流れから考えると、プロダクトオーナーと開発チームの間には「場」が分断されている。守破離の「守」では開発チームが領域になっている。つまり、仮想敵を作り、チームを仲良くするかのように見えるのだ。

コプリエンさんに確認したところ、こちらも守破離で、領域を拡大するとのことだ。最初は「守」の限られた領域で安心して開発を行うことを学ぴ、次には、この見通せるようになった「破」を迎える。その後、「離」の段階で、その領域を拡大するのだ。この領域は拡大していくことによって、価値の流れをスムースにしていくのである。つまり、普通に学んでいるスクラムは、「守」のスクラムに過ぎない幻想のスクラムで述べたロールやプロセスなどから離れ、自らの状況にあわせデザインしなければならない。

自分で考えたものの、それだけでは単なる制約のない状態になってしまい、カオスの状態になる傾向がある。その学びを調整するために「場」に影響を与え、その場からの影響を受けながら適応していく。その結果、協調を引き起こし、「場」が活性化していく。

究極スクラム (Scrum The Ultimate)

バグを減らすこと、または品質を作り込むことを、なぜ取り込まないのか。対立や衝突を起こさず協調するようなデザインにしていないのか。なぜスゴい人をも巻き込んで全体のパフォーマンスを上げる構造にしていないのか(歴史的および私の経験から、そのようなフレームワークは存在する)。それらをフレームワークとしてデザインしないことは「失敗させ自分で考えること」を強制させ気づくためである、というコト以外、現時点では思いつかない。

スクラムの伝道者や実践者は、スクラムを実践する上であなたは考えていますか、と突きつけられているのである。まさしくそれは困難な修行のような道筋であろう。それを抜け出す方法が、コプリエンさんのメッセージである「自分で考えなさい」ということである。そのような構造がスクラムの本質であるととらえた。つまりスクラムは、スクラム自身が提唱する構造やプロセスさえも自分で考え、場合によっては否定して作り直しなさい、と語りかけているのである。

スクラム自身を否定するスクラム、まるで「空(くう)」のような構造を持っているかのようだ。それをスクラムと言うべきなのか、私にはわからない。たしかに、コプリエンさんの「何がスクラムであるとは言えない」の言葉を改めて思い出した。

レッドピルを飲んだ我々は、真実を見つめ、奴隷から抜け出し、そして空を自由に飛ぶのである。

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これは、あくまで 執筆時点において理解したスクラムについてのメモである。間違いや不適切な理解が含まれているだろうし、5年間のうちに私自身の中でもアップデートされている。ただ、もし言わんとするメッセージについて興味を持っていただけたら、うれしく思う。こっそり公開してみる。

かけ算の順序問題をゆるく考えよう(追記あり)

かけ算の順序問題をゆるく考えよう

このところ、かけ算の順序の問題がFacebookTwitterなどのタイムラインに流れてくる。まさしく次男(二年生・2016年)は、かけ算を学んでいるところである。さあ、無視するのもひとつだが、どう教えようか悩ましいところだ。数日に渡り、子どもたちと話してきたことを簡単にまとめる。

かけ算の順序問題とは

かけ算の順序問題 - Wikipediaより引用する

かけ算の順序問題は、かけ算によって解が得られる算数の文章題において、特定の順序で書かれた式のみを正解とする採点方針と、どの順序で書かれた式でも正解とするべきであるという主張の対立である。

例えば、1つぶんの数×いくつ分で求まるかけ算の文章問題では、「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい。みかんはいくつあればよいでしょうか。」という設問に対する、「(しき)6 × 4 = 24(こたえ)24 個」という解答を不正解にすべきかどうかが問題となる。

つまり、

(かけられる数)× (かける数)

もしくは

(単位あたりの数)×(乗数)

の順番ではない式を回答した場合、間違い(ぺけ)とするかどうか、と言う議論である。

「かけ算の順序」問題の議論

試しに「かけ算 順序」で検索するとホットなトピックになっているためか、たくさんの検索結果がある。例えば、こんな感じだ:

調べれば調べるほど、長期間にわたって議論がされている。今のところ順序を間違ったとしてペケをつけることに否定的な意見が多いようだ。

とりあえず、説明や議論…できなかった

次男(小学二年生)は、かけ算の勉強をしている最中である。

  • 子どもに説明してみたんだけど…

    「2×3と3×2が同じ答えになるんだね」と、順番を変えても同じ答えになること(交換法則)に子どもが自ら気がついた。実数のかけ算は順番を変えても答えが同じになることを話した。自分が書いた絵と同じ絵がWikipediaにあったので貼り付けると:

    MikanTable2 - wikipedia

    この図によって、かけ算の順番が変えられることは説明できた。さらに『算数に教えるのに必要な素養 (PDF)』のエッセンスを説明しようと試みたが、その時は適切な伝達が難しかった。聞く方も訳がわからない感じだった(もう少し整理できそうなので、後で再試行する予定である)。

  • 先生と議論してもいいけれど…

    子どもたちが通っている小学校の教員は、知識や技術もあり熱心に教えてくださっており、感謝している。様々な教務だけでなく、事務や学習、イベントのため極めて忙しい状態に見える。その中で、 かけ算の順序問題についての議論を学校の先生としても負担になってしまい「学ぶこと」の恩恵が全体として減ってしまうと心配する。

    小学校では、かけ算を学び、計算の練習し、九九を覚える、などの一連のカリキュラムが進んでいる。先生に議論して、時間の制約もあるので全体の方針を変えるようなことは現実的に困難である。

ゲームとして考えてみる

子どもたちには 「ゲーム」について話をした。その習慣や正解は、そのゲームの中で成り立っていることを理解する。 なお、子どもたちにわかりやすいようゲームと読んでみた。この場合、ゲームとは「共通のルールの交換/前提としながら複数のプレイヤーが関係すること 」として幅広い意味で用いている(文化とも考えられるだろうが、あとで書きたい)。

  • 「食事をするときは、きちんとお箸を持ちなさい。ただし、お箸を持たない他の国もあるよ。例えば、インドではね…らしいよ」
  • 「きちんとご挨拶しなさい。ただし、挨拶しない国もあるよ。例えば、○○○ではね…」

そのゲームを選択するかどうか、ゲームにのるかどうかを含めて自分で考える。 ゲームにのって「郷に入っては郷に従う」かどうかを選択する。この場合、自分で考えるより、ゲームにのる方が良さそうな例として:

  • 「例えば、カタカナのアイウを練習している時に考えても難しいよね、教えられたように練習することも大切だよね」
  • 「例えば、空手、能や狂言について知らないよね。それらを理解する(わかる)のに数年(それ以上)かかる。相手を選んで従いなさい。」

ゲームを意識することによって、その自分が当たり前と思っている常識や正しさを含めて考える。

今回の算数については、このように子どもたちと話し合った:

  1. かけ算の意味や計算を学ぶ(ゲームのルールについて知る)。
  2. かけ算の順序が交換可能であるか一緒に考える(他のゲームについて知る)。例えば、 第1話 - 落語・掛け算(山本弘) - カクヨムは楽しかった。英語圏では順序が逆になることを一緒に調べた。
  3. その上で、小学校で行われている かけ算の順序について一緒に考えた(ゲームにのるかどうかを考える)。
    • 日本語の文章題を式にする練習のため、このように順番を大切にしているのではないか。
    • もう少しすると、(子ども自ら発見したものと同じ)交換法則を学ぶことを知るので、過渡的な勉強なのではないか。
    • テストの点数を取るため、この順番について勉強するのが適切な選択と考えられる。
  4. 教科書やドリルを使って学ぶ(ゲームにのる)
  5. たまにふりかえる(ゲームの中にいることを確認する)

子どもたちは「ゲームとして、やるか/やらないかを考える」ことを たぶん理解したようだ。

まとめ

  1. かけ算の順序が 長い期間にわたって議論されている。
  2. この議論を、当事者(かけ算を学んでいる小学二年生とその親)として 収束させることは現実的に困難である。
  3. この問題をゲームとして理解し、ゆるめる(相対化する)ことにより、ゲームにのる/おりるを選択する
  4. その結果、長期的で複数の視点の獲得によって自由を得られるとも言えるだろう。

これからは…

かけ算の順番についての議論を無視して、先生に教わったことをそのまま従えば、テストの点数を取るためには効率的かもしれない。しかしながら、常識や正しさが変わってしまう時代になってきた。教科書や指導法も、時代によって変化している。そのような時代を生きていくために、そのまま学習するのではなく、その学び方も合わせて考えることによって、とらわれにくくなることも必要ではなかろうか。ゆるめることで俯瞰し、楽しんで学習し、そして、スッキリ身につけていきたい。

今まさに試していることを紹介したものの ゲームとして考える方法だけでなく、いくつもの他に選択肢がある。まだしばらく小学二年生はかけ算の勉強中であるので、これからも見守っていきたい。

関連情報/参照情報

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追記 2019年5月4日(3年後)

かけ算の順序は、義務教育の体系化されたカリキュラム全体で評価する必要がありそうだ。

「割合」の単元は、かけ算と関連深い。さらに、かけ算は、「割合」の次に「比」につながっていく。グラフ、速度、時計、つるかめ算、比を使った図形、さらには微積分まで、つながっていく。この「比」の概念は、小学校で最も難しい単元のひとつと言われている。

たとえば、グラフを書きながら、速度と時間と距離の関係をしっかり身につける時、かけ算の順序が固定されていると書きやすい。もし、かけ算の順番がなかったら、「比」や「速度」「(比を使った)図形」などの単元で混乱しやすい。特に、この「割合」や「比」は、初めて学ぶ抽象的な概念とも言われ、つまづく場合も多いようだ。現実と抽象をしっかり結びつけて学んでほしい。

小学5年生(この記事を書いた時は2年生)に聞いてみると「売買損益の問題を解く時、<原価><定価>と<割引><利益>の順番を整理して式を書くことがとても大切だ。式に書く順番が違うと答えを間違えやすくなる!(以下略)」と熱弁してくれました。

とりあえず、うちでは、小学生の子どもに対して「かけ算の順番を使って整理しよう」と教えていきます。ただし(二年生で気づいている)順番を変えても答えは同じになることを確認します。

このように、この体型的なカリキュラム全体を、子どもたちが容易に学ぶために、かけ算の順序を固定しているのではないか。教える都合とはいえ、そのように思っている。

なぜ小学生はランドセルを使って通学するのだろうか

なぜか、この記事が書いてあったので公開しておく。


「なぜランドセルは無償支給ではないのか 一部の子供がリュックサックで登校している現実」を読んで、不思議に思っていることがある。それは、なぜランドセルを使うのかということだ。

子どもが通う公立小学校の入学案内や新年度案内の用意するものには「ランドセル」と書いてあるため、地域の小学校における全生徒がランドセルを用いている。怪我など妥当な理由がある時を除き、通常ランドセルを用いる実質上のルールとなっている。

ランドセルとデイパックを比較する

学童保育の時に用いているリュックやデイパックがある。ランドセルとデイパックを比較してみたい。

ランドセルは重たい

ふんわり天使の羽が生えているような宣伝をしているランドセルもある。調べてみると、だいたい1kg前後ぐらいの重量とのことだ。子どもたちが使っているデイパックの重さは0.6kgであった。入れ物の重さが1.7倍近く違う。

何も授業がない日でもランドセルの1kg強の重さがかかっている。これに6時間分の教科書とノート、連絡帳や筆記用具、防犯ブザーなどが入る。大人が持っても ずっしりと重たいと感じる。私自身は、約2kgのラップトップPC (2012年のMacBook Pro 15" Retina)ですら重たく感じ「亀仙人の修行」と話すぐらいである。小学生が、これ以上の重さを毎日持ち歩いていることになる。

つまり、軽くなってきていることは評価するが、ランドセルは軽いとは言えないのだ。

ランドセルには荷物が入りきらない

曜日(時間割)によって、教科書とノート、筆記用具を持って通学する。さらに授業で用いる習字やお絵かきの道具、上履き、体操着、給食当番の白衣、習い事(お花)の道具など、持っていくものは沢山ある。学期の初めと終わりには、道具箱や防災頭巾などなど荷物が多い。

ランドセルには、曜日(時間割)によっては教科書とノート、筆記用具ですら入りきらない。無論、道具や着替えなどを入れる余裕などない。

入りきらない荷物を運ぶため、学校指定の大きさの手提げバックを持ち、さらに肩から絵の具セット、手には習字道具などを持っている。 荷物が入りきらないのである。あまりに教科書とノートが重たいため、ランドセルに入りきらないことを担任の先生に説明した。担任の先生は「持ってくるもの」を指示するようになって荷物が減っても、メガネケースがツブれるぐらいに教科書がいっぱいで、すべての荷物が入りきらないのだ。

ランドセルを使っていると荷物が入らないため不自由で両手もふさがり 安全性も損ねられる

ランドセルは値段が高い

ランドセルの平均購入価格は…39,540円とのことである。6年間使えるように保証もつき、作りや手縫いなど、いろいろ機能が入っている。

しかし、デイパックは5000円弱なので、ランドセルの8分の1の値段である。毎年一つ買ってもデイパックの方が安いのである。このような価格なら用途に合わせて用意することもできる。

ランドセルを使う理由は妥当だろうか

なぜ、荷物が入らず、柔軟性も少なく、値段も高いランドセルを使うのだろうか。歴史を見ると、軍隊で使用されていた背嚢(はいのう)が由来と書いてあった。いまいち納得できる理由はなかった。

  1. 小学生の存在をアピールすることも理由にならない :小学生が通学していることをアピールすることによって、安全を確保する必要性があるのかもしれない。ただ、もし通学をアピールする必要であれば帽子やバッジなど他のツールがあるだろう。私が属している行政区では小学校ごとに違った校帽をかぶっているので、どの学校に通っているか帽子を見るだけでわかる。一年生は配布された札をつけているので、サポートもしやすい。

  2. 授業の集中を邪魔することも理由にならない:もしランドセルでなければ面白いカバンを持ってしまい、注意散漫になってしまうのが心配なのかもしれない。ただ、通学カバンを選ぶポイントを書けば済むこと。子どもたちが通う公立小学校でも、筆箱や消しゴムにキャラクターはつけない、などの具体的な指示があって、授業の邪魔をしないように工夫されている。

  3. 両手がふさがらないことも理由にならない:前述の通り、ランドセルには教科書も入りきらず、絵の具や習字道具、体操着などがランドセルに入らないため、両手と両肩に荷物をかけている状態である。

  4. 壊れずに長く使えるわけではない: うちの子どもたちが使っているランドセルは、あるブランドの中でも高級ランクのものを選択し、6年間の保証が付いている。丁寧に使っているようだったが、半年もしないうちに金具や部品が取れてしまった。修理に必要な期間は数週間も必要であるため、夏休みを除いて現実的な修理ができなかった。現在、壊れたまま使用している。良いものを丁寧に扱う例としては十分ではなかった。

結局のところ、「他人と少しでも違うことがあれば、すぐに指摘し笑いものにする。」のように、他の人と一緒だから使っている、という理由が現実的なところではないだろうか。現状の小学校において、他人と合わせ目立たないことも大切だと思っている(正確には「両方のバランスを取りなさい」と教えている)。

ただ ランドセルは、重いことで子どもに負担をかけ、荷物が入りきらないことで子どもが不便をし安全性を損ねることは、子どもにとっても不自由ではないだろうか。子どものズッシリと重たいランドセルを持ち上げるたびに、なんでだろうな、と疑問に思う。

ランドセル以外の選択肢も普通にあるといいな

私が小学校高学年のときは、ショルダーバッグやデイパックを使っていて問題点はなかった(東京都の城南地区である)。お金がないと指摘されたこともないし、むしろ優越感にも似た気持ちを感じたような気がする。

他の人と合わせるために、ランドセルを使うのはから使うにしては不自由すぎるのではないだろうか。自分のスタイルを考え、スタイルにあったカバンを選ぶ自由と喜びがある。他の人がやっているから、という理由だけで、自分で考える喜びや、選択の妥当性を考えても良いのではないだろうか。

うちの子どもたちは、通っている公立小学校の入学案内に「ランドセル」と書いてあったため、そのままランドセルを使っている。荷物と重たいランドセルを持って通っている。荷物が多い日は、大きなデイパックやリュックサックを用いるなど、楽な選択肢が取れると良いなと思う。

都立高校の制服のように、制服も含めて洋服を選べるスタイルは妥当だと感じる。無論ランドセルが好きで使いたい子どもは自由に使えば良いと思う。ランドセルをやめてデイパックや自由なカバンにすれば、親も子供も経済的にも物理的にも楽になると思う。なにより安全に通学できる、というのが嬉しいのではないか。

日々の生活や勉強を優先して交渉や議論はしていないが、ランドセルやリュックサック、デイパックなど みんなが自分自身にふさわしい格好を考えて通学できれば良いなとつねづね思っている。機会や興味があったときに校長や教育委員に聞いてみるのもいいのかもしれない。

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自分で作った文書データと長い友達でいるためのメモ(情報のSDGs)

自分で作った文書データと長い友達でいるためのメモ

先日、OS (OS X/macOS)をアップデートしたところ、使っていたアプリケーションが動作しなくなった。macOS SierraJava 6 runtimeをサポートしなくなった影響で、そのアプリケーションが動かなくなったようだ。それ以前のOS(OS X, El Capitan)でも画面描画が怪しく、ほぼ使い物にならなかった。動作するようにソースコードや内部的な設定を調査して修正する時間的な余裕が取れそうもない。仕事で使っている資料の閲覧や更新ができなくなり困っているところだ。

そこで、新しい情報はないけれど、文書データを長く使うために意識していることを当たり前のことかもしれないけれどメモしてみた。


時間が経過してデータは蓄積され価値が継続する

思えば、学業から仕事まで30年弱は、パソコンやワークステーションで画像や動画、プログラムや文書などを作ってきた。最初の10年分ぐらいのデータは、手違いにより消してしまったけれど、それだけの文書データがある(はずだ)。自分の書いた昔の文書や発表資料を参考にすることがあり、そのためにはデータを持っている。

それらのデータを作り出すたにアプリケーションやサービスを使っている。 エディタやワープロ、画像編集ソフトなどのアプリケーションやウェブサービスを利用している(便宜上、Microsoft Officeのように主としてローカルのコンピュータで動作するものをアプリケーション、slideshareiCloudのように主としてインターネットなど通じてリモートで動作するものをサービスと表現した)。

仕事や生活の種類もあるけれど、その場限りのデータから永続的に保持や再利用する文書データもある。例えば作業用の一時的なデータであれば、その作成じには必要であっても、その後は過ぎてしまえば利用価値がなくなる。永続的なデータは、明示的に永続するその時の「ログ」として保存しておき、あとで参照し、再利用して編集する資料もある。その時の判断が難しい時は、ディスクの値段も十分に安くなり、ディスクの検索技術が発展しているため「とりあえず保存」している。

本記事においてあくまで永続的に保持しておきたい文書データを対象としたい。

時間が経過するとデータが使えなくなる

  • 保守されないアプリケーション

    OSのアップデートに伴い、動作しない文書を作成するアプリケーションがある。このこと自体は、アプリケーションを評価して、慎重にアップデートすればすれば良い、という教訓になるのかもしれない。しかしながら、セキュリティや利便性の向上が期待されるし、いつまでも古いプラットフォームであるOSを使っているわけにはいかない。

  • サービスが使えなくなる

    過去のアプリケーションやサービスにおいて提供会社の消滅によって突然使えなくなった経験もしている。提供会社が訴訟に負けて消滅しましたので、使えなくなりました、という事後報告を受けた経験がある。 EvernoteslideshareAmazon Web Serviceのような素晴らしいサービスを利用している。しかしながら、突然これらが使えなくなることも視野に入れる必要がある。

  • ファイルが壊れる

    PowerPoint形式のファイルが壊れ、10年前の資料が開けなくて困ったこともある(PDF化したファイルが読めたので、何を書いたかが理解できた)。ファイルが壊れやすいアプリケーションがあるようだ。

継続的な利用を想定する

  1. 目的を確認する

    多くの利用者にとって、その製品を使って発表や文書、メールやプログラムを書くなどのアウトプットすることや考えることが目的である。むろん製品の評価や提案を行うコンサルタントのような仕事であれば、いろいろな製品を使って評価することも大切だろう。ただ、多くの人々にとって目的は、その製品の使い方を覚えることではなく、何らかのアウトプットをだすことではないだろうか。使える時間は有限である。あまりにも製品に着目しすぎると、本来の目的がおろそかになりがちだ。

  2. 資産と棚卸

    次に、自分のデータをいつまでも持っておく必要があるのか、という疑問がある。一時的な作業と、資産の二種類がある。再利用するのであれば、ファイルは編集可能な状態で持っておく必要があるだろう。ディスク容量が拡大し廉価になっているため将来的に資産になるかどうか判断がつかないときは、とりあえず持っておき、適当な時に棚卸して削除する、という作戦を取っている。

  3. 物理的な変化と論理的な変化

    変化に対抗するためには、依存を減らすことである。ある特定のハードウェアやサービスなどの物理的な環境に依存している時は、その物理的な環境が壊れてしまった時は継続した利用が不可能になる。ある特定のサービスやアプリケーションのファイルフォーマットなどの論理に依存している時は、それらの提供停止や変更が行われた場合、継続した利用が難しくなる。 ハードウェアの故障やサービスの停止のような物理的な変化、OSやアプリケーションの変更やファイルフォーマットの保守の中止などの論理的にも変化していく。それぞれの変化に対して耐性の強い方法を使う。

依存関係を減らすため一般的な形式と冗長化で継続的な利用を実現する

論理的な変化と物理的な変化に対応するためには、論理及び物理的な依存関係を減らす(選択する自由を広げる)ことである。 そのために論理的な変化についてはよく使われている形式を用いること、物理的な変化に対しては冗長化を行う。

  1. 論理的な変化に対して よく使われている(標準的/オープン/シンプルな)形式を用いるアプリケーションによってa.享受する期間とb.動作環境の選択肢を広げる。a.世間で使われている標準的な形式やアプリケーションを用いていれば、財政状態の良さや保守する人員も見込めるため長い期間においての使用が期待されるだろう。b.そのツールが使えなくなっても、他の代替え手段が見つかるかもしれない。
  2. 物理的な変化に対して 冗長化(バックアップ)によって使えなくなった場合への耐性をつける。冗長化とは物理的なコピーを作ることである。例えば、同じデータを持っているディスクが2台あれば、1台が使えなくなっても使える。

    そのアプリケーションをやめられるか、環境がなくなっても継続して利用できるのかに着目することがポイントである。

1.よく使われている(標準的/オープン/シンプルな)形式を用いるアプリケーション

よく使われている形式による利点は、主に論理的な変化に対する耐性が強くなることだ。

  1. よく使われている形式であれば、享受できる期間が長くなる。世間で使われている標準的な形式やアプリケーションを用いていれば、財政状態の良さや保守する人員も見込めるため長い期間においての使用が期待されるだろう。例えば、Microsoft Office形式やMarkdown形式は、よく使われているため、これからも長い間保守されるだろう。
  2. よく使われている形式であれば、アプリケーションやサービスの選択肢が広がる。例えば、一連のインターネット・メール形式や PDF、LaTeX形式はよく使われているため、ハードウェアやOS、アプリケーションが変わっても、使うことができる。

このような前提に基づいてアプリケーションを選ぶと:

  • 例えば、発表資料(プレゼンテーション)を作る場合、Macで使えるKeynoteはキレイなプレゼンテーションを作ることができて、気に入っている。しかしながら、KeynoteよりMicrosoft PowerPointの方がユーザ数もはるかに多いため、おそらくメンテナンス期間はPowerPoint形式が長くなると予想している。PowerPointとHTML+CSSを比較すると悩ましいところだけれど、HTML+CSS単純なテキスト形式であることと無料/低額で動作環境が用意できるため、長く使えそうである。ただ、表現力との兼ね合いもあり、長く使えることとの選択肢が葛藤する(PowerPointXML形式を用いているらしいが、直接エディタで編集したことがない)。

  • 例えば、オープンソースで開発されている環境やアプリケーションは自分で直す機会があるため変化に強いだろう。ただ、修正には、それなりの時間が必要になってしまうため、万人向けとは言い難いが、開発が撤退した時もどうにか使えることがある。 プログラムとデータが一体になった環境を想定するのであれば、Virtual Machine(VM)のような中間実行環境を持ち歩き、異なった環境で動作するかもしれない。

2.冗長化(バックアップ)

形あるものは確実の壊れる。物理的に離れた場所に置いて確実にバックアップを残す。

  1. 離れた場所であること :例えば、バックアップが家の中にあった場合、その家が壊れてしまったら、バックアップも壊れてしまう。DropboxiCloud、OneDriveのようなクラウド上の共有ドライブを用いて、ローカルとリモートの両方にコピーを置いておく。
  2. 自動化されていることMacを使っていればファイルの変更履歴が取れるTime Machine機能が付いているので、ネットワークディスクにバックアップをとる(Windowsにもバックアップ機能が付いている)。
  3. 復旧が実施可能なこと:バックアップからの復旧において、どのバージョンを元に戻すのかが難しくなる。ファイルの世代管理ができるとバックアップだと便利だ。

大切な情報を印刷することは、バックアップとして有用であるが、今はその機会が減ってきた。タブレット(iPad)でいつでも引き出すことが多いことと、検索の困難さ(紛失してしまうリスク)があるからだ。ただ失われた時に復旧が困難な情報は、印刷も一つの視野に入る。

そんなこんなで長い友達でいるために

  • テキスト形式は最強

    UNIX哲学で議論されてきたように「テキスト形式」はよい。特に単純な形式/機能が良い。いろいろな機能を使いたくなるかもしれない。しかし、単純な形式や機能を(場合によっては)使いこなす方が、その機能を使える。

    ただし、Shift_JIS形式を扱いにくい状況が増えてきた。macOSを使っていて、Shift_JISを用いているファイルが、そのままでは閲覧できないことが増えてきた。ちょっとの一手間でコード変換を行えばよい(のだが、まだ未実施)。1

  • Microsoft Office も頑張ってる

    全世界的なユーザ数と、それらが生み出したデータ資産を考えると、Microsoft Officeで文書を作ると長く使えるだろう。ただし、理由は不明だが、ファイルが壊れることが多く(しかも完成直前で壊れる経験が多く)困っている(2023年4月追記:サブスクリプションや対応OSを考えると、テキストファイルのように長くは使えない)。

  • MarkdownやHTML+CSSは使い勝手が良さそう

    MarkdownやHTML+CSSは、長く使えそうだ。仕様も簡単で、様々なエディタや開発環境が使える。一般的なエディタでも、これらの形式は使えるし、専用のエディタも広く使える。

    自分で過去に書いたコードは、自分で読むことが困難なことがある(=過去の自分は他人である)ため、可読性に注意して綺麗に記述しよう。例えば、Markdownにおいて、リストは「-」、段落ヘッダは「#」を用いるなど自分に簡単な制約を課して、シンプルに用いている。これにより、のちのちの可読性が上がるだけでなく、機械的な変換などにも対応しやすくなるだろう。

  • PDFとして残しておこう

    文書データは、より使われている形式であるPDFとして保存しておくことで、そのアプリケーションが使えなくなっても、どのようなファイルであったか参照できる。

自分の場合

メイン機と家族用バックアップ機のMacBookシリーズを用いている。LinuxBSDが、よりオープンなプラットフォームであり、Apple社一択となることはそれに違反していると言えるが、成り行きで使っている。 私自身は、1993年ごろからIBM PC互換機+Windowsであったものの、2004年に購入したThinkPadのハード的な不具合の多さと、2006年ごろ購入したVAIO+Windows Vistaの強制終了の多さによって、しばしば作業が中断され困っていた。 その時に所持していたMacBookが安定した動作をしていたので、そのまま世代交代しながら現在まで使い続けている。

物理的な変化に対応するためのバックアップについては、2台のMacBookシリーズを用いている。 ほぼ全てのデータをDropboxiCloud上において作業しているため、ローカルとクラウド上の両方にデータがあることになる。 さらに、標準の機能を用いてネットワーク越しにバックアップをしているため、(今まで一度も発生したことがないが)壊れた場合はそのままリストアする。

論理的な変化に対応するため文書データは、表現や機能と、長く使えるのか、など、自分の目的に合わせた判断が良い。 私の場合、ほぼ文書は Markdown形式、発表資料はHTML+CSS形式を用いることが一般的になっている。 いずれもシンプルでわかりやすく、私の目的を十分に満たしている。 投稿や納品する形式が指示されている場合、LaTeXMicrosoft Office製品を用いる。 その場合でも、Markdown形式で書いたものを、LaTeXやWordに貼り付けることが多い。

フォルダ構成は「時間ごとに整理する」という『超整理法2』に基づいて、年代ごとにフォルダ(例:2016docs)を作り、その中に月ごとやプロジェクトのフォルダ(例:201610docsや2016blogs)を作って置いてある。OSの検索機能を使っているが、目視による確認が行いやすくしている。

さて、本記事の最初に紹介したOSアップデートによって動作しなくなったアプリケーションによって作られた文書データがある。これを参照し、再利用できるようにするために、OSごと用意するなどを含めいくつか手がありそうだ。ただ、今しばらくは手をつけられそうにない。まだしばらく友達でいたいので、しばしの別れである。

逆に蒸発する一時的な利用について まとめてみるも面白そうでもあるが、それはまた別の機会に。

追記 2023年4月:できる限りWordやPowerPointは使わず、テキストファイルを使おう

現時点でMacBook Pro (Retina, 15-inch, Mid 2012、以下 MBP 2012) と MacBook Pro (13-inch,M1, 2020) を使っている。 MBP 2012 は、11年間使っても故障もせず大きな問題も発生していない。 最新機種に比べてバッテリ駆動時間もCPU処理能力も劣るが、普通に動作している素晴らしいやつだ。

ただし、MBP 2012 は、macOS Catalina 10.15 である。 2022年夏にセキュリティパッチは出たものの、もはやメジャーアップデートはできない。

Microsoft 365のサポートOS(2023年4月)

そして、Microsoft WordやPowerPointなどのMicrosoft 365は、2022年秋にサポートが切れた。 Microsoft 365は、サブスクリプションを更新しなければ使えなくなってしまう。 MBP 2012 において、サブスクリプションを更新してもWord形式は安全に使えなくなった。

WordやPowerPointに比べ、Markdown形式などのテキストファイルが長い友達でいられる。

なお、Office以外にもOmniGraffle 7やGoodNotes 5などの有料アプリも更新が終わってしまった。その事情は理解するし応援もする。 ただ、MBP 2012 も MBP 2020も テキストエディタ(今はVisual Source Code)や draw.ioのような無料アプリを使っている。

今度、OSが変わってもアプリケーションはテキストファイルをメインにしていきたい。

東武東上線中板橋における脱線事故についてのメモ

追記

2016年10月18日に東武鉄道から中間報告がありました。列車の一部脱線に関する調査結果と対応について(中間報告) PDF形式によるとレールに問題は、なかったようです。


2016年5月18日に東武東上線中板橋駅において脱線事故があった.この事故の原因が調査されているだろう.しかし,「東武東上線 中板橋 脱線事故 原因」で検索しても,公開された情報では明確に原因が特定されていないように感じた.

10両編成の中間1両だけがなぜ突然脱線したのかなど事故には謎が残り、原因究明へ向けた調査が続いている。

東武東上線「中間車両のみの脱線」で深まる謎 | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

私自身は,鉄道の趣味もなく,近所に住んでいる利用客である.子どもが小さいので,泣いた時など一緒に現場を見に行っていた.子どもが運転手さんに手を振ると,振りかえしてくれるので,子どもの機嫌が良くなり,大好きな場所のひとつである.地元の住民として気がついたことことがある.本来ならシミュレーションと実験を検証したいが,時間が取れないためメモのみを残しておく.

事故状況

2016年05月18日に東武東上線中板橋から大山に向かう途中で脱線事故があった

  1. 該当場所(踏切の近くの分岐器)は,通過する急行(本線)と待ち合わせる普通(側線)がある
  2. 今回の事故は,側線から合流する(つまりカーブしている,曲がっている)普通列車で発生した.
  3. 事故写真を見ると,枕木に亀裂があり,トングレールが曲がっている.
  4. 中間車両である5両目が脱線した
  5. 脱線が起こった場所は,踏切ちかくの中板橋駅を出たポイント(分岐器)である.
  6. 当該場所は,線路,枕木,砂利で構成されるバラスト軌道である

作業仮説(事故原因を推定するための前提)

  1. 線路も数カ月以内に保守され異常が認められなかったと推測
  2. 速度超過はなく,運行上の問題はなかったと推測
  3. 線路上に石などの異物を置かれた形跡はなかったと推測
  4. 車両点検時に問題はなく,リスク事項は認められなかったと推測

以上の作業仮説により,1.と2.より脱線係数を超えず,3. と4.により事故が起こる要因が明確になりにくいのではないか.

仮説(脱線した原因の推測)

それでも脱線してしまった.

  1. なぜ脱線したのか
  2. なぜ5両目が脱線したのか
  3. なぜ台車が割れたか
  4. なぜ現象が発生するのか

少しずつ状況を見ていこう

  1. なぜ脱線したのか

    該当ポイント(分岐器)における電車通過時の線路の沈み込みが激しかった(目視で確認できる程度なので3cmから5cm程度か).枕木を含めて線路が沈み込んでいた.

    事故が発生する半年以内に,当該場所のバラストの補充が行われていたようだ.子どもと見ているときに「線路は曲がるんだね〜」と話していた(その時は,事故に関係するとは思っていなかった).

    f:id:masanari:20160707110428p:plain

    事故直後の写真も,線路と砂利(バラスト)に隙間があることがわかる.側線から侵入した普通列車は,線路による沈み込みによって,車輪がレールを横方向に押す力(横圧)に耐えられず,脱線したのではないか.

  2. なぜ5両目が脱線したのか 駅を出発した列車は加速するため,速度の増加と,作用時間の増加によって,中間車両が脱線したのではないか.ただ,前後方向への引っ張り力により,一部だけにとどまったのではないか.

  3. なぜ台車が割れたか 台車が割れたことは原因ではなく結果である.つまり,脱線した結果,台車が割れ,トングレールの変形や枕木の亀裂が発生したのではないか.

  4. なぜ現象が発生するのか 該当箇所は 踏切とポイントの距離が短く,該当線路に働く応力(物体の内部に働く物理的な力のこと)が高い.線路の単位距離あたりにかかる力が大きいため,その箇所のバラストが排除され,枕木の沈み込みが大きくなるのではないか.つまり,ポイントと踏切の間の補強が根本的解決となるだろう.

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この記事において「線路の沈み込みが大きかった」ことは観察した事実であり,それ以外の「〜ではないか」と記述した文は私の推測(仮説)である.模型実験およびコンピュータを用いたシミュレーションによって,これらの推測(仮説)を検証したいが,専門家に譲りたい.もし仮に実験やシミュレーションを行うに際し,助言や監修が必要であればお声がけください.

なお,本事故により,けが人が でなかったことは,不幸中のさいわいである.引き続き,安心して利用していきたいと思う.

参考文献

洋式トイレで男子の尿ハネを減らす方法

日本の家庭で男子は、洋式トイレで立っておしっこをすることが一般的だ。 洋式トイレで立っておしっこすると水滴が飛び散る(尿ハネ)。おしっこのにおいがつくと、トイレが臭くなる。掃除も大変だ。

便器の前に立つ通常の足の位置である。矢印は、足の位置を示している。

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日本人の平均股下は約78cm、便座高さ約42cmとすると、おおよそ36cmの落差がある。12cm以内の位置から おしっこするのがよいとされている(家族が涙!トイレ問題 大解決SP : ためしてガッテン - NHK)ので、成人男子が洋式トイレに立っておしっこすれば、水滴が飛び散る尿ハネが当たり前だ。

ただし、座ってトイレをすると、ズボンを下ろす必要があり、少し面倒くさい。プライドが傷つく人もいるかもしれない。

そこで、前開きの下着を履いている場合、構え(立ち方)を変えることで、12cm以内の距離を実現し、尿ハネを減らすことを提案したい。

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左右対称であるが、左足前の例を示す。

  1. トイレタンクの近くまで、左足を出す。左のヒザを90度近くまで曲げる。
  2. 目安としては50cm程度、右足の位置を下げる(身長170cmの筆者の場合)。かかとはつけたままで,右足の指先を30度から45度ほど外に向ける。
  3. 必要と思われる位置まで腰の位置を下げる。
  4. 尿ハネが少ない、手前を狙う(家族が涙!トイレ問題 大解決SP : ためしてガッテン - NHK)。

その結果、便器の高さまで約10cmの距離を実現でき、座った状態とほぼ変わらない。距離が短いだけあって、尿ハネも少ないようだ。

これは空手の「前屈立ち」を参考にしている。体勢がつらい?稽古であります、押忍。

頭の中の小人たち(どのように考えているかのメモ)

頭の中の小人たち(どのように考えているかのメモ)

頭の中のアレクサンドリア大図書館の話(認知特性について) - 成人発達障害当事者のブログ | decinormalが興味深かった。この投稿は、Twitterでコメントを書こうとしたら、意外にも長くなってしまったのでブログ記事にした。

私的なことなので、違う考え方が適切なのかもしれない。ただ、この文章は、文献や他のページをまったく見ずに、自分の中の気持ちを探りながら書いてみたほやほやのオリジナルである。科学的観点から遠いだろうし、ツッコミどころはあるだろうが、暖かく見守っていただけたらと思う。なにせ自分自身ですら確信がないのだから。

NLP神経言語プログラミング)の代表システム

NLP神経言語プログラミング)にコミュニケーションで意思疎通を行う際にどの感覚が優位かを判断する代表システムがある。Visual、 Auditory、 Kinesthetic (VAK:視覚、聴覚、体感覚)のどれを優位に使っているのかを判断するモデルがある。

私自身は、身体感覚(K)優位のようだ。そのため、理解に時間がかかるものの、大枠の理解が得意である。むろん入力をもとにどんどん変わっていくが、一度理解したら(入ってきたら)たいていのことはブレが少ないようだ。

視覚の認知は少し弱めである。例えば、人の顔をきちんと覚えていることが苦手だ。判別の方法は、その人のかもしだしている雰囲気としか言いようがない。なので、映画を見ることは苦手だ。雰囲気が変わると、同じ人かどうかがまったく判断できないから、物語がわからない。

聴覚(聞くこと)の認知は、もっと弱い。時間とともに過ぎてしまうのが特に苦手だ。きちんと理解した時や、質問が明確になった時には別の話題になることは多い。

練習するように身体感覚を身につける。あわてずじっくり熟成するのを待つのが良さそうだ。

頭の中の空間と位置

decinormalさんの場合:

何か知りたいことがあると私は頭の中のアレクサンドリア大図書館に行く。すると、目録カードのみっしり詰まった棚のいくつかがひとりでに開き、そこから該当の情報の書かれたカードが飛び出す。

私の場合も、同じように空間や場がある。これは物理空間(の理解)とは違うが、うまく表現できない。色もついてるか不明だけれど、近いと遠い、強いと弱いはあるように感じる。図書館とも違うが、似たようなものを表現しようとしているのかもしれない。

その空間や場には、位置がある。その位置では、勝手に何かやっている。記憶や言語、連想や風景、匂いや音などがごちゃごちゃにある。その位置が活性化され優位になって、場や空間を支配する感じだ。絶対座標ではなく、相対座標に近い気がする。

この複数の位置で、同時に別々のことをやれるので、マルチタスクは普通にやっていた。10年ぐらい前は、五つぐらいの仕事や作業は同時並行が可能だった(その代わり、体力を使う)。考えることについてのコンテキストスイッチ(作業切り替え)のコストはあまり気にならなかった。むしろ複数の仕事をやっていた時は飽きず、アウトプットの量も質も良かったように思う。特に、その位置や場を活性化するのに時間がかかるだけに、複数の位置がアクティブなのは問題なく効率よく進められる。ただ、似ていることは同時にできない、近すぎてしまって混ざってしまうからだ。

記憶のされ方

記憶も位置にある。自分の空間の中にある、位置(人)は、たいていの場合、物語(ナラティブ)や論理、出来事(イベント)がごちゃまぜに入っている。連想できるが、連想とは限らない。時系列に近いことも多いが、そうでもない。なんとなくある、としか言いようがない。

本などの知識は、その位置に行くと、本の内容、その時の匂いやページなどがごちゃまぜに入っている。記憶にあるうちは、ページ番号を見ていれば、ページ番号も合わせて、もう一度読むことができた。要約している場合は、その要約した概念もある。

理解しやすいこと/理解しにくいこと

身体感覚による理解は、身体の感覚だけに言葉にならず、説明が難しい。文章や絵にするなどの表現をしようとしても、適切な言葉や構図を選び出すことが難しい。

数学や古典などは理解しやすい。仏教の古典の蛇や犀、牛飼いや、よくできた数式は、理解に時間がかかるけれど、鳥肌が立つように体感覚として理解した(入ってきた)ことが何度かある。

逆に、矛盾した主張をしている場合、その主張がまったく理解ができない。距離が離れすぎていて、体をどこに置けばいいかわからないし、ひとつのことをだと認識が困難なのだ。たいていの場合、矛盾しているときはそのままにしておくのだけれど、「俺ってすごいんだぜ」的な相手のエゴが気になる時、そのエゴがこちらに入ってくるのが気持ち悪い。

抽象化マシン:お仕事する位置たち

理解の方法は、いくつかある。たいていは位置に紐づけられているのだが、機能に結びついているので「マシン」と名前をつけてみた。仕事のような場面で話を聞く時によく使う抽象化マシンを紹介したい。抽象化マシンは、1. データをインプット 2. 解釈/抽象化マシン 3.アウトプットの流れで使う。

  1. データ(記憶マシン): 連想が強い場所に行く(もしくは、優位になる)感覚である。例えば、ランチ(麻婆豆腐)を食べに行った時の位置に行くと、食べたおかず(映像)や匂い、音、話した人の雰囲気、風景などの連想の塊がある。
  2. 抽象化マシン: データの意味や内容を理解する。ある関心をベースにノイズを切り取って、他のデータを探しながら整合性のある概念を得る。「それって、○○ってことなんだ」と感じる(ただし、言葉ではなく概念のままのことが多い)。
  3. アウトプット(言葉探しマシン): 理解した概念にふさわしい言葉や図を探す。実は、ここがいつも難しい。例えば、辛いものを食べる喜びは、麻婆豆腐の辛さなど複雑になった味と、その中に旨みを見つけた時の喜びもあるのような言葉である(うまく表現しきれていない)。

このような抽象化マシン以外にも、具象化マシン、連想マシン、意味発見マシン…などがお仕事している。このマシンは、学習することが可能で、獲得すると色々使える。

普段は、これは抽象化マシンを使おう、というように使うのではなく(普段は、名前も住所もついていないしね)、ウロウロしていると丁度良いマシン(位置)に出会う感じである。一度、その抽象化マシンを使うと、その抽象化のプロセスと一緒に、その位置に紐付けられるようだ。

言葉さがしと表現

言葉さがしは、難しい。なかなかピタッと はまる言葉は見つからない。特に体感覚優位なので、その言いたいことと言葉との距離が遠いことが多いからである。(別の位置にある)社会性や場の空気、相手と自分の良いところも入るので特に難しくなる。

自分の場合、極めてわかりやすい表現だと思っても、なかなか難しい時もあるし、わかりやすい、と言ってくれる人も一定数以上いる。アウトプットには翻訳のような努力が必要だ。単語がない時は、状況や背景を説明したり、定義したり、いろいろ試している。ただ相手の話すことに聞くことに注意しながら、ゆっくりやっている。

他人の位置

自分の空間/場に、他人が入り込むこともあり、その人がどのように考えているか、その思考の順番や視線の位置が手に取るように感じる。その時、その人の具体的なアウトプットは予測不可能だけれど、枠組みとしては外れていないことが多い。

普段、他人の感情的な部分は極めて弱い、いや、弱めている。相手の場所に自分が行く(相手が入ってしまう)と、共感しすぎてしんどいからだ。怒っているかどうかなどの共感はすっぽり抜け落ちている。

自己同一性(いつも自分は変わらず、一緒の自分であると感じること)は強くなく、ゆるい感じだけど、安心感はある。

マインドマップは苦手(KJ法は得意)

マインドマップは、苦手である。「とりあえず100枚マインドマップを書け」と書いてあったので書いてみたけれど、馴染むことができなかった。結局、単語や文章の羅列に線を引く形式に落ち着いている。

普段、私の考えるプロセスは、1. 具体的な話や経験をインプット(記憶マシン) 2. 抽象化や内容理解、カテゴリが決まる(抽象化などの処理マシン) 3. 文章や図、話などにアウトプットする(言葉探しマシン)である。

いろいろ書いてから、それが整理されて、何者かがわかるのだ。マインドアップの場合、中心から発展させるので、記憶マシンの経験が歪められてしまってナチュラルな記憶にならないのだ。結局、納得できるようにならない。

逆に、記憶マシンから言葉探しマシンを使って出力した後、抽象化マシンや論理マシンを使ってまとめ上げた方が、自分でも発見することが多く、納得できるので、KJ法と、そのプロセスの方がしっくりする。

年をとって

このところ、いろいろなことを忘れるようになった。同時実行なんてとても無理。ひとつのことですら精一杯だ。なんて幸せなんだろう。

とりあえず、感じるままに書いてみたが、本当なのかよくわからない。たとえば、便宜上書いてみたののの「頭の中」かどうかも検討が必要だ(なんとなく頭の中だけじゃない気がするのだ)。もっと広がりがあるようなので、いつか言葉にしたい。

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